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地球ワーキングトラベラー見聞記

カナダ、アメリカ、オーストラリアの永住権を持ち、ヨーロッパでの滞在経験もあります。世界100カ国以上回った、私の見聞記を楽しんで下さい。

中東の辺境『イエメン』

辺境で日本人にあうと話がつきませんね。
さすがに日本食までは食べませんでしたが、
一緒に食事をしただけでなく、
その後店を変えデザートも食べました。

旅行の情報が少ない地区だったので、
皆で情報交換をするのが目的です。
何処の宿が良いとか、何処が美味しいとか、
ガイドブックに載っていない
生の情報は本当に役に立ちます。

旅行好きは中東に来ていても、
次は今まで何処が良かったとか、
これから何処へ行きたいなどの
旅行は世界中に広がって行きます。

知り合った三人とも『イエメン』を目指していました。
19世紀にはオスマン帝国支配の『北イエメン』と
英国が支配する『南イエメン』に分かれていました。
20世紀にも独立、占領、クーデターなどを繰り返し、
やっと1990年に統合しましたが、
2000年頃までは政府が安定していませんでした。

中東でも危険な国のひとつと言われていました。
その国に旅行しようと言うのですから、
さすがの私も脱帽しそうになります。
これらの国以上に情報がない国でした。

当時在日大使館があったかどうか知りませんが、
日本でビザを収得するのは、時間も費用もかかったようで、
アンマンで申請する人が多かったですね。
またここから飛ぶのが一番安かったようです。
と言っても往復700ドル位すると言っていました。

女性のひとり旅はビザの許可おりませんでした。
そこで一緒に旅行してくれる仲間を捜すのも、
アンマンに滞在する理由のひとつだったようです。
彼女も仲間が見つかり、ビザの申請中でした。
その間に他の国へ旅行する人も多かったです。

私達はここだけで別れるのも寂しくなり、
翌日『キリストが洗礼を受けた場所』へ、
一緒に観光に行くことになりました。

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イエメンのサヌア(旧市街) by 大使館HP


観光情報
イエメン共和国大使館 日本語
http://www.yemen.jp/index_j.php


イエメンの観光ビザに関しては
続きからをご覧下さい。


『野菜の王者 モロヘイヤ』

もちろん中近東を旅行する日本人は
当時もいましたが、アンマンで初めて見ました。
皆同じホテルに泊まっているわけではありませんが、
ここで男性2人と女性ひとりに会いました。

皆なそれぞれ別々に旅行していましたが、
中近東を中心に長期で旅行していました。
三週間だけ旅行している私なんて、
彼らからみれば短い旅行に過ぎませんでした。
いつ帰るか予定もない人もいましたね。

日本でバイトしてはお金を貯めて、
海外旅行に出ている人が多かったです。
ガイドをしていても正社員ではありません。
私も忙しい時は休みもなく働いて、
ある程度の余裕があるとき、
暇な時期に旅行をしていたのが現状です。

シドニーでは日本人環境で働いていますが、
中東に来てから日本語を話す機会もなかったので、
ついつい皆さんと話し込んでしまいました。

皆で一緒に夕食をすることになりました。
ベジタリアンの私が食事で困っていると言うと、
美味しいスープがあると教えてくれたのが、
モロヘイヤのスープ』でした。

日本名は『シマツナソ』と言われていますが、
若葉を刻むとオクラのような粘りがでます。
エジプトやインド辺りが原産だそうですが、
『野菜の王者』と異名を持つように、
栄養価が高いと言われています。

シドニーの野菜屋でも実際に売っていますが、
自分で料理したことはありません。
私の中東でのメニューに組み込まれ、
二日おき位このスープを食べていました。

740px-Molokheya_hi_res.jpg
  モロヘイヤのスープ by wiki

旅行情報
ヨルダン政府観光局
http://jp.visitjordan.com
ヨルダンの日系旅行会社 ピクチャーティックヨルダン
http://picturesque-jordan.com/service_Introduction_Japanese.html




モスクと雑居する安宿

ヨルダンの建国についてはお話しましたが、
私がこの国を訪れたのは、
シリアからイスラエルへ行くのに
ルート上この国を通過するのが便利だけでなく、
『ペトラ遺跡』を見るためでした。

そのため『首都アンマン』には
それほど興味はありませんでした。
『地球の歩き方』は観光地『ペトラ』は
比較的頁を割いて記載されていましたが、
首都の割にはアンマンは数頁だけでした。

そう言う時は『ロンリープラネット』の
安宿情報をもとに宿を決めます。
中近東の安宿は一棟だけのビルは少なく、
雑居ビルのひとつの階を利用しています。
一階が商店街で店やレストランになっています。
その上はオフィスになっている所が多いです。

アンマンで泊まった安ホテルは4階位にありました。
エレベーターもなく階段はちょっときついです。
ビル自体はとてもフロアーが広くて、
階段もとても広かったのです。

階段ではたくさんの男性達を見かけました。
彼らが2階にある集会場のような所に行くので、
何があるのか始めは不思議に思いましたが、
それがお祈りをするためのモスクだったとは?
ホテルで知り合った日本人の旅行者に聞いて、
びっくりするやら、納得するやらです。

モスクと言うのは大きな建物のイメージがあります。
もちろんアンマンにも有名な大きなモスクもありますが、
建物の一階を利用した集会場のような
モスクもあるとは、驚きの桃ノ木です。
イスラム教にもいくつか宗派があって、
人数が少ない宗派は、そんな所でお祈りしているか?
残念ながらその辺の事情はわかりませんでした。


Amman_downTown.jpg
   アンマン旧市街 by wiki

旅行情報
ヨルダン政府観光局
http://jp.visitjordan.com
ヨルダンの日系旅行会社 ピクチャーティックヨルダン
http://picturesque-jordan.com/service_Introduction_Japanese.html


私の訪問国 95国目
ヨルダン


フランスと英国の委任統治は役に立ったのか?

私も一応高校で世界史を習いましたが、
中東についてはそれほど詳しく習いませんでした。
私が義務教育を受けている頃は
ベトナム戦争と中東紛争が一番の話題でした。
しかし大人でさせ理解できないのに、
子供に理解できるわけがありませんよね。

パレスチナとユダヤ人問題に関しては、
大人になった現代でも理解することは難しいです。
ましてやたった一度だけ旅行しただけで、
それを理解するのは全く無理ですね。
旅行したからと言って、何も分かっていません。

今回中東の記事を書くにあたって、
ウィキペディアを結構読みまくっています。
ウィキペディアだけを読んで理解できたら、
それこそアナリストはいりません。

しかし今回思ったことがひとつあります。
中東がこれほどまでに問題を抱えているのは、
決してアラブ人とユダヤ人の民族問題、
イスラム教徒とユダヤ教の宗教問題だけではありません。

すべてはその後ろで糸を引いている物がいること。
東西が対立していた頃は、アメリカとロシアが
その利害のために世界中で後ろ盾をしていましたが、
その一昔前までは、フランスと英国が支援をしては、
混乱を一層掻き立てて来たような気がしました。
援助すると言えば聞こえは良いのですが、
結局は自分たちの利害を優先させるだけです。

幕末の頃、日本にも二つの国の手が伸びて来ました。
フランスは幕府軍に、英国は官軍に、
それぞれ資金を貸し付けました。
『その資金で自分の国で作った武器を買わせる』
という、自分たちの利益が目的なのです。
『アメリカの南北戦争』時も同じようなことをしたようで、
明治維新が『南北戦争』の後というのは、
決して歴史の偶然でもないかもしれません。

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アンマンにあるヘラクレス神殿 by wiki


ヨルダン国の誕生

1875年英国政府は『スエズ運河株式会社』の筆頭株主となり、
『スエズ運河』は英国の管理下で中立地帯になっていました。
当時エジプトに軍事介入していた英国にとって、
イスラエルやヨルダンを委任統治すれば、
スエズ運河を安定して保有することができました。

英国は、オスマン帝国からアラブ国家を独立させるため
フサイン・イブン・アリーを支援して反乱を起こさせ、
1916年『ヒジャーズ王国』を創始させました。

1918年オスマン帝国が降伏するまで、
アラブ人とともに戦った有名な英国人がいます。
映画『アラビアのロレンス』で有名な
英国将校トーマス・エドワード・ロレンスです。
彼は任務を通じて、フサイン・イブン・アリーの三男
ファイサルとその配下のゲリラ部隊に目をつけ、
ファイサルが独立するまで協力しました。

1920年ダマスカスで行なわれた『アラブ民族会議』で
次男のアブドゥッラーはイラク国王に
三男ファイサル・はシリア国王に選出されました。
しかしフランスとシリアの戦いにより
ファイサルはシリアから追放され、英国に亡命し、
翌年のカイロ会議でイラク王に選ばれました。

この後押しをしたのはもちろん英国ですが、
次男のアブドゥッラーについては、
『委任統治領パレスチナ』となる予定の地域のうち
ヨルダン川東部の広大な乾燥地帯に
『トランスヨルダン王国』の建国を認めると提案しました。
彼はこれを受け入れ、『トランスヨルダン国王』となります。

彼はユダヤ人の『シオニスト運動』を歓迎していたとされています。
1928年にはロンドンでハイム・ヴァイツマンと会い、
ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地を認める代わりに
アミール(首長)の地位拡大を支持するよう頼んだとされています。
現在の国王アブドゥッラー2世の祖父にあたります。
1946年委任統治領から『ヨルダン王国』として独立します。



ちょっと余談ですが、、、
『アラビアのローレンス』
この映画は白黒テレビの頃に、
良く意味もわからないまま見ました。
だいだい小さい子供に、
意味がわかるわけないですよね。


主演したのは、『ピーター・オトゥール』
つい先日亡くなりましたね。
ここ10年は大きな映画の出演もありませんでした。
最後の思い出としては、『ラストエンペラー』でしょうか。
名俳優がまたひとりまた旅立ちましたが、
いつまでも『アラビアのローレンス』として生き続けるでしょう。

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アラビアのロレンス by wiki





アラブ独立運動の指導者『フサイン・イブン・アリー』

現在のヨルダン王はアブドゥッラー2世ですが、
私が旅行した頃は父親のフサイン1世でした。
イスラム教の予言者ムハンマド(モハメッド)の
曽祖父ハーシムの一門(ハーシム家)です。
ハーシム家は代々メッカのシャリーフ(宗教的指導者)や 
アミール(地方総督)を努めていました。

オスマン帝国の支配下にあった頃、
フサイン王の祖父『フサイン・イブン・アリー』は、
スルタンの命によりイスタンブールに住んでいました。
青年トルコ人の革命後、メッカのアミールになります。

第一次世界大戦中、イギリスのカイロ駐在の
高等弁務官・マクマホンと書簡を交換し、
オスマン帝国に反旗を翻すときに支援するという協定
『フサイン=マクマホン協定』を結びました。

フサイン・イブン・アリーはアラブ半島に
アラブ人による帝国建国を望んでいましたが、
英国、フランス、ロシアは同年の『サイクス・ピコ協定』で
アラブ人の土地も含むオスマン帝国領を
三分割する密約を交わしていました。

英国の支援を受け『アラブの反乱』を起こして
1916年にメッカを首都とするヒジャーズ王国が
現在のサウジアラビアの一部に建国されました。
アラブ人の王と名乗っていましたが、
トルコ主権下で自治領が王国と称していたのが実態です。

1924年にカリフに即位すると、
ヒジャーズだけではなくアラブ地域全体で
有力者層の猛反発と怒りを買い、孤立してしまいます。

このような状況の中で、長年にわたり対立してきた
イブン・サウードがヒジャーズ王国に攻め入ると、
フサインは退位させられ、息子のアリーに譲位して
キプロス島へ亡命することとなりました。
息子のアリーもその年イラクに亡命しました。

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フサイン・イブン・アリー by wiki

*この記事はWikipediaを多く引用しています。
内容はほぼ同じですが、文章は私なりに書き直しております。



オスマン帝国の破壊よって

ヨルダンはビザを事前申請する必要がありません.
陸路でも国境で無料でビザが一ヶ月までもらえました。
独立前は英国が委任統治していたこともあり、
中東のなかでは英語が通じる国でした。

私が旅行した頃は父親のフセイン国王が在位していました。
英国の王立陸軍士官学校でも教育を受けています。
4人いた妻(離婚、死別を繰り返したため)の中には
英国人やアメリカ生まれの王妃もいました。

中東の中では欧米よりの政治をしていたため
アラブ諸国からは敬遠されていたようですが、
お陰で外国人には旅行しやすい国でした。

シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン
現在でこそそれぞれ別々の国になっていますが、
その国境は常に変動してきました。
第一次世界大戦の頃はオスマン帝国の支配下にあり、
言葉や民族がことなっても、
ひとつの国だった時代もあります。

第一次世界大戦が終わった時に、
連合軍側はオスマン帝国の土地を分割、統治しました。
特にフランスとイギリスは侵略的に、
アラブ半島での統治権を行使しました。

それによって、シリアとレバノンがフランスの、
イスラエルとヨルダンが英国の委任統治領になります。
これが『英国統治領パレスチナの誕生』です。
そこから1946年にトランスヨルダンとして独立、
1948年にはイスラエルが独立します。

1868年に開通した『スエズ運河』の管理会社から、
英国政府は44%の株を購入して筆頭株主になります。
その後暴動を口実にエジプトに軍事介入して、
『スエズ運河』は英国が管理する中立地帯になりました。
英国にとって、隣国を統治すれば、
さらに安定して管理することができたようです。

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  オスマン帝国の勢力図 by wiki


シリアで口説かれても 、、、

何とか変なシリア男性を追っ払って
レストランに戻りバスを待っている間、
ここのオーナーが話かけて来ました。

何故ひとりで旅行しているか?
結婚はしているか、子供はいるのかと?
まあ中東の男性の一般常識からすれば、
女性がひとりで旅行するのは不思議なのでしょうね。

当時は私もそれなりに若かったので、
ひとりで旅行していると声をかけられました。
この程度の質問は良くあることですが、
泊まって行けとか、結婚してくれと言うのは嫌ですね。

何で私がこんな中東の果てで、
見知らずの男と暮らさなければ行けないのか?
自分が一緒に暮す人は自分で選びます。
残念ながらそのおじさんと恋に落ち入る程
ハンサムでもなく、若くもなく、
オーナーでも大金持ちではなかったですね。

オーストラリアに住んでいると言うと、
『結婚してくれ、僕もシドニーに住みたい』
なんて言うのは過去にたくさんありました。
シドニーに住みたいから、結婚して欲しいのでしょうが、
そしたら私が面倒みなきゃいけないじゃないの、、。

まあ憧れの国に住むのは結婚が一番早いけど、
口説かれるのも善し悪しがあります。
多分のこの手の人は、他のに人にも声かけて、
そのうち誰かが落ちれば良いと思っているかも。
口説くのはお金もかかりませんからね。
一夜だけの思い出が作れるかもしれないし、、。

荷物を預けていたので、丁重に断って、
バスの出発が近づいたこを良い理由に、
さっさと荷物を受け取ってバス停に向いました。
ダラアに到着すると、セルビスに乗り換え、
ヨルダンの首都アンマンを目指して出発です。

800px-Bosra-Ruins.jpg
   ボスラにある遺跡  by wiki



観光情報
シリア政府観光局 英語
http://www.syriatourism.org/index.php?newlang=eng
シリアの観光情報 Come to Syria
http://www.cometosyria.com/en



ボスラのローマ劇場

ダマスカスを後にした私はヨルダンに向います。
首都アンマンまでセルビスに乗ることも出来ますが、
すこし回り道をして行くことにしました。

シリアではすでにいくつか遺跡を見ていましたが、
中東最大のローマ劇場と城壁が残る
ボスラ』を見逃すことはできません。
ルートからはそれますが、国境付近にあるので、
それほど遠回りにもならないようです。

ボスラの街に到着して
バス停の近くにあったレストランで昼食をとります。
帰りのバスのチケットもここで買いましたが、
観光中そこで荷物を預かってもらいました。

ポスラの遺跡は2世紀頃に作られたそうです。
かつては人口8万を数える都会でした。
隊商の一員として、若い頃訪れたムハンマドは
この街で予言者になると告げられました。

この辺りの建築物は玄武岩で出来ているので、
パルミラの遺跡とことなり黒っぽいのが特徴です。
バス停が歩いて行くとすぐに城壁が見えました。
そこの一角で入場料を払います。

ここのローマ劇場は屋根付のポルチコ型です。
2階も上がれるようになっていますが、
そこからはヨルダンまで見渡すことができます。

今までいくつかローマ劇場を見ましたが、
ボスラは保存状態も良く、
現在でもコンサートが開催されるようです。
ステージに立って歌ったら気持ちが良いでしょうね。

劇場内をひとりで観光していたら
シリア人男性がゆっくりと後から付いて来ます。
他に観光客もいるし、オープンスペースなので
それほど心配はしていませんが気持ち悪いです。
観光客がたくさんいる方向に歩いて行き、
何とかその人を追っ払うことができました。

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  ボスラローマ劇場  by wiki



観光情報
シリア政府観光局 英語
http://www.syriatourism.org/index.php?newlang=eng
シリアの観光情報 Come to Syria
http://www.cometosyria.com/en


イスラム教第四の聖地『ウマイヤド・モスク』

あまり印象のないダマスカスでしたが、
観光にあまり興味のない私でさせ、
一カ所だけ忘れては行けない所があります。
それはウマイヤド・モスクです。

カアバ(サウジアラビアのメッカ)
予言者のモスク(サウジアラビアのマディーナ)
岩のドーム(イスラエルのエルサレム)についで、
イスラム教第4の聖地とされています。

ウマイヤ朝第6代カリフのワリード1世によって
705年にダマスカスに建築された
現存する世界最古のモスクであり、
世界最大級のモスクのひとつだそうです。

もともとキリスト教の洗礼者ヨハネ教会でしたが、
7世紀になってムスリムの支配下になると、
10年の歳月をかけてモスクに改装されました。
そのせいか他のモスクと異なり、
ローマやビザンティン建築の様式を残しているそうです。

モスクは『古代都市ダマスカス』の一部になっています。
観光客や巡礼者だけではありません。
近くにはスーク・ハミディーエがあるため、
買物やお祈りにくる地元の人達でごった返しています。

モスクには観光客も入ることができますが、
信者の方とは違う門から入場するようです。
女性はあっちとか、外国人はこっちとか、
いろいろ言われましたが、言葉が通じなくて、
結局その門を見つけることはできませんでした。
モスクの周りを歩いて外側から見たり、
開いていたドアからちらっと除いて終わりになりました。

外ではスカーフをする義務もありませんが、
入場の際、女性はグレーのガウンを着用するようです。
男性もやはりランニングや短パンは慎むべきです。
神聖な場所は、宗教に関わらず尊重したいですね。

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   ウマイヤド・モスク by wiki



観光情報
シリア政府観光局 英語
http://www.syriatourism.org/index.php?newlang=eng
シリアの観光情報 Come to Syria
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印象の薄い『ダマスカス』

ダマスカスシリアの首都ですが、
世界一古くから人が住み続けている街だそうです。
7000年の歴史と言うのですから、
世界4大文明が開花する頃には
すでにこの街には人が住んでいたことになります。

私は旧市街の安いホテルに泊まったので、
新しい建物が並ぶ市街の方はわかりません。
古い街にしてはこじんまりとしていたイメージだけで、
あまりこの街に関する印象は残っていません。

ハマーのように水車があるとか、
大きな特徴があればいくつか覚えていますが、
中近東の街も何処も似たり寄ったりで、
今から思うと、『ここと言う特徴がない限り』
大きな印象としては残っていません。

レバノンは最初の国だったせいか
比較的記憶の中に乗っています。
しかしシリアとヨルダンの街は良く似ていて、
はっきりと覚えている建物は少ないですね。

ヨーロッパ諸国も似たような建物が多いですが、
パリ、ロンドン、ローマにある建物は、
何度も何度もテレビで映し出されるので、
記憶の中に焼き付いて残っています。

しかし中近東の諸国のように、
一生に一度位しか行かない街では、
ひとつひとつの街を思い出すのは無理ですね。
同じ中近東の国でもイスラエルやエジプトなら、
これもテレビで何度も見たことがあるので、
その街の特徴を思い出すことができるのですが、、、

ダマスカスシリアの首都なのですが、
これほど印象が薄い都市も少ないですね。
今思い出すのは、チキンのロースト屋が多かったこと。
多分これは私が肉が嫌いなせいもありますね。


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  ダマスカスの旧市街 by wiki



観光情報
シリア政府観光局 英語
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シリアの観光情報 Come to Syria
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古代ローマ帝国の遺跡『パルミラ』

アレッポは1泊しただけで移動しました。
シリア最大と言われるパルミラ遺跡を観光するためです。
もちろんユネスコの世界遺産にも指定されており、
当時でもガイドブックに載っていました。

パルミラシリア砂漠にあるオアシス都市です。
横断するキャラバンにとって重要な中継点であり、
シルクロードの中継都市としても発展しました。

紀元前2000年頃にはすでに街があったようですが、
1世紀ごろからローマ帝国の影響を受けて、
ベル神殿、ローマ劇場などを建造していったようです。
一部は当時も修復してありましたが、
内戦が終わったばかりで観光客は少なかったですね。

前回見たパールバックの遺跡にも似ていて、
多分私の頭の中では混乱していると思います。
しかし遺跡としてはこちらの方が大きかったようです。
何処までも砂漠が続いていました。

長い間廃墟になっていたようですが、
一部の草地では放牧もされているのでしょうが、
山羊が草を噛んでいたのが、ちょっと哀れでした。
平和が来ない限り立派な遺跡があっても、
観光客が海外からは来てくれませんからね。

ローマ遺跡なんてイタリアに行って見飽きています。
まさかこのシリアでも見ることになるとは、
しかしこれで終わりではありませんでした。
結局他に見る所もないので、ダマスカスや
ヨルダンでも遺跡を尋ねることになりました。

その日はこの街に泊まって翌日移動しました。
砂漠にも今は舗装された道路が通っています。
ダマスカスまで一回乗り換えで行きましたが、
途中『バグダッド』という標識を見ました。
小さい頃に読んだ『アラビアンナイトの世界』です。
いつかその道を通ってイラクにも行ってみたいです。

Temple_of_Bel_in_Palmyra.jpg
   パルミラの遺跡 by wiki


観光情報
シリア政府観光局 英語
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シリアの観光情報 Come to Syria
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アレッポは石鹸づくりが有名

翌日はシリア第二の都市『アレッポ』に行きました。
他の国は首都ぐらいしか尋ねなかったのに、
シリアだけはいくつも都市を尋ねました。
今から思うとそれだけ居心地が良かったのかもしれません。

アレッポは紀元前1800年頃から居住が始まっており、
ヤムハド王国の首都として栄えたそうです。
古代アレッポの上に現在の市街地が広がっているために、
考古学者が発掘する機会がないそうです。

アラブの街には必ずスークと呼ばれる市場があります。
トルコのイスタンブールが一番大きいと思っていましたが、
アレッポのスークもかなり見応えがあります。

スーク内は地図がないと迷子になりそうな程
小さな店がたくさん集まっていますが、
意外と秩序良く作られているようで、
横道に入っても本道に戻ってくれば一周できます。

衣料品、日用品から貴金属などの高級店まであり、
店を見て歩くだけでも楽しくなります。
まだ先があるので、お土産を買う気力はありませんが、
滞在集はいつもここで食事をしていました。

アレッポは石鹸がとても有名です。
今でこそインターネットで簡単に買えますが、
当時はもちろんここまで来ないと買えませんでした。
1000年以上の歴史を持つ手作り石鹸は、
日本でもかなり人気が高いようですね。

私が小さい頃は棒石鹸と言って
長い棒のようになった石鹸がまだ売っていました。
それを切って母が洗濯石鹸として使っていました。
私はアレッポで石鹸を買いませんでしたが、
今でも必要な分だけ切ってくれれるそうです。
オリーブや月桂樹のオイルをたくさん使って
昔ながらの手作りで作っているそうです。

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    アレッポ旧市街 by wiki


観光情報
シリア政府観光局 英語
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シリアの観光情報 Come to Syria
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ハマーの安宿『カイロホテル』

ハマの名物は『水車』だけではありません。
実は中東一とも言われる安宿があります。
私が旅行した頃から『ロンリープラネット』でお薦め、
そのためにわざわざここに来たようなものでした。

私が泊まったのは『カイロホテル』でしたが、
隣にある『リヤドホテル』も人気があるようです。
どちらもドミトリーやルーフドミあるようですが、
私はもちろん個室の部屋に泊まりました。

当時シャワー、トイレ、エアコン付で
わずか10ドル位だったような気がします。
世界一周するのであれば『ドミ』を選ぶでしょうが、
わずか3週間の旅行ですから
10ドルならやっぱり個室に泊まります。

シリア安宿と言うので期待はしていませんでしたが、
部屋はシーツもきれいに洗濯してあり、
掃除が行き届いていたのに驚きました。
日本のビジネスホテルより快適でしたよ。

アラブ式のトイレはタイやインドで経験済み。
お尻を小さな穴の上に置いて用を足します。
外国人が泊まる所には紙も用意してありますが、
地元の人は横にあるシャワーで洗うようですね。
和式のトイレにウォシュレットが付いているな感じですが、
私は使えないのでいつも紙を用意していました。

キッチンや食堂があったかどうか覚えていませんが、
ここでツアーやバスの手配もできました。
一番嬉しいのはやはり英語が通じることですね。

長い旅をしていると安心して泊まれる宿を見つけると、
自分の家に戻ったように居心地が良いです。
それで安いとなれば旅人の見方ですよね。
隣同士なので見比べて泊まると良いと思いますが、
シーズン中はかなり混雑するようです。

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カイロホテル by Tripadvisor


観光情報
シリア政府観光局 英語
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シリアの観光情報 Come to Syria
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シリアの紛争はいつまで続くのか?

私がイラクを訪問して数年後に
アサド大統領が亡くなりました。
息子のバッシャールが大統領に選ばれ、
新しい空気が流れると祝われたものです。

シリアを支援していたソ連が崩壊し、
旧ソ連諸国にも民主化の並が押し寄せたり、
1993年のオスロ合意により、
パレスチナ自治政府が成立して、
中東を廻る状勢も和平に向っていました。

そんな中でシリアもバッシャール大統領の
独裁政権に変わりはありませんが、
民主化政策を掲げることになったようです。
これを『ダマスカスの春』と呼びました。

しかしイラクのフセイン体制が
アメリカ軍によって崩壊されると、
危機を感じたバッシャール大統領は、
国内の体制引き締め政策を行ないました。
デモ活動、集会の禁止など、
民主化とは反対の道へと逆戻りです。

2011年チュニジアで一青年の
投身自殺事件に端を発する反政府デモが
国内全土に拡大して、大統領が亡命します。
23年続いた独裁政権が終わりを告げますが、
これを『ジャスミン革命』と呼んでいます。

チュニジアだけにとどまらず、
エジプトを始め他のアラブ諸国にも広がり、
長期独裁政権に対する国民の不満と結びつき
政変や政治改革が発生しています。

アラブの春』はこのシリアにも押し寄せ、
反体制派と政府軍による武力衝突が
今日でも続いており深刻な問題になっています。
あの頃のシリアが懐かしいです。
一日も早く平和が来ますように願っています。

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    ハマーの宮殿 by wiki


観光情報
シリア政府観光局 英語
http://www.syriatourism.org/index.php?newlang=eng
シリアの観光情報 Come to Syria
http://www.cometosyria.com/en



悲劇の舞台になった『ハマー』

しかし当時平和そのものだったハマーでも
2回も大きな悲劇が発生しています。
1961年エジプトととの連合を解消して、
シリアアラブ共和国として独立します。

1963年バアス党政権がクーデターで政権を取ると、
シリアイスラム同胞団がハマーで動乱を起こし、
100名近い死者が出たそうです。
バアス党内部で権力争いが発生すると、
穏健派のアサドがクーデターで実権を握ります。

1971年大統領に選出されると、
対イスラエル強硬派としてエジプトと組みます。
国内では少数派のアラフィー派を優遇する、
独裁政権に嫌気をさした『イスラム同胞団』が、
70年代後半から都市ゲリラ活動や
自動車爆弾で爆破事件を起こします。

1982年ついに彼らが決起し
ハマーを『解放区』とする暴動が発生します。
大統領の弟はシリア軍を率いて
数週間に渡り攻撃し鎮圧しました。

市民が巻き込まれただけでなく、
同胞者とそれを支持した市民が連行され、
拷問や処刑されたそうです。
これにより2万人以上の死亡者が出て、
ハマーの大虐殺』と呼ばれてます。

そんな過去の歴史を知らなかった私は、
テロ事件が発生していると言われても、
遠い昔のように感じていました。

欧米でもテロ事件は発生したり、
暴動が起きたこともたくさんあります。
しかしこの国は隣国との戦争の間に
国内でも事件が起きているのですから、
市民が安心して生活できた日があるのでしょうか。

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    ハマー市街地 by wiki


観光情報
シリア政府観光局 英語
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シリアの観光情報 Come to Syria
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水車の街『ハマー』

『クラック・デ・シュヴァリエ』を観光した日は
ホムスに泊り、翌日ハマーに移動しました。
ここは水車がとても有名です。
以前は30個以上あったそうですが、
現在は17個の水車しか残っていません。
直径が20Mで世界最大の水車もあります。

この水車はオロンテス川から水を汲み
灌漑用として利用されていますが、
紀元前1100年頃から利用されており、
この辺りの文化の高さが伺えます。

そう言えば現在の中近東は、
インダス、エジプト、メソポタニアと
世界的文明の発祥地に挟まれています、
古い遺跡や歴史のある街が多いはずですね。

大きな川が流れているせいか、
中近東にしては緑が多く感じました。
喉かな雰囲気がしたのは
水車のせいかもしれません。

子供達がお母さんと一緒に街を散歩したり、
家族が仲良く公園で寛いでいました。
男性達はカフェで水パイプをふかし、
井戸端会議に花を咲かせています。

こんなのどかな風景を見ていると、
ここが危険地域に言われるシリアとは思えません。
今まで持っていたシリア=テロのイメージが
崩れてしまう程に平和そのものでした。

私が旅行したのは諸国との問題はあっても、
お互いに『平和協定』で繫がっていた頃、
前アサド大統領の独裁政権と言いながら、
国民は平和に暮らしているようでした。
現在のシリアの内戦が何時まで続くのか?
一日も早く平和なシリアに戻って欲しいです。

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    ハマー水車 by wiki

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シリアの観光情報 Come to Syria
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十字軍の要塞『クラック・デ・シュヴァリエ』

『聖ヨハネ騎士団』の要塞として使用された
クラック・デ・シュヴァリエ』を観光しましたが、
城の内部はあまり記憶に残っていません。

ガイドが英語が上手でなかったこともあれば、
私自身『十字軍』『聖ヨハネ騎士団』と言われても、
歴史で習っただけで内容は良くわかりません。
ましてや日本語で聞けば少しは理解できるかもしれませんが、
Knights Hospitaller と言われても、
それが『聖ヨハネ騎士団』と結びつかなかったですね。

今のようにインターネットで情報が飛び交っていれば、
行く前にある程度の知識を入れることもできます。
当時の『地球の歩き方に』にそれは無理でした。
今回旅行する国がわずか一冊でまとめてあるのですから、
シリアに割かれるページは少なかったです。

ロンリープラネットは文字は多いけど、
詳しい説明を理解するには、英語力だけでなく、
ヨーロッパや中東の歴史だけでなく
各宗教の歴史的背景も理解しておく必要があります。

そう言う場合はガイドさんが説明してくれても、
頭の中から全部飛んで行ってしまいます。
お陰で何を見たのか、殆ど覚えていないわけですね。

城の周りを歩いた情景は鮮明に覚えています。
ここは街からかなり離れた丘の上にあり、
丘の下には緑深い川が流れていたのです。
その割には周りには緑が殆どありませんでした。

あの向うがレバノンだと言われましたが、
当時はここからレバノンにかけての高原地帯が
シリアとの領土問題になっていたようです。
シリアの侵攻を何度も受けて、占領下になっていました。

度重なる戦にも絶えて来た12世紀頃の建物が
今回の内戦で、シリア軍による空爆を受けたそうです。
城は反政府勢力の拠点に利用されたそうですが、
この城が完全に破壊されないことを願うばかりです。

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    クラック・デ・シュヴァリエ by wiki


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十字軍国家と『マルタ騎士団』

南イタリアのターラント公ポエモンは
アンティオキアの攻囲戦で活躍しますが、
ここが陥落するとエルサレム攻略に参加せず、
1098年アンティオキア公国を建設しました。

アンティオキアの南90kmにある
『クラック・デ・シュヴァリエ』は、
1099年トゥールーズ伯によって落城しました。
しかし彼はこの城を放棄して南下します。

エルサレムを占領し、王国が建設されると、
トゥールーズ伯はトリポリに戻ります。
ここに十字軍国家を成立するために、
藩主アンマールと長い戦争を開始しました。
途中亡くなりますが、息子によって城が陥落、
1109年トリポリ伯国が建設されました。

1110年アンティオキア公国の摂政タンクレードは、
『クラック・デ・シュヴァリエ』を再度攻め落とし、
その後修築されたそうです。
1942年にはトリポリ伯レーモン2世によって、
『聖ヨハネ騎士団』に贈られたそうです。

『聖ヨハネ騎士団』は平時は医療奉仕をしますが、
十字軍国家の防衛の主力をなしていました。
『クラック・デ・シュヴァリエ』と
バニヤースの『マルガット城』を本拠地として、
140の砦を守っていたそうです。

しかし1291年最後のキリスト教徒の砦が陥落すると、
キプロスに逃れ、その後ロードス島に本拠地を移します。
さらにロードス島を追われると、
マルタ島に移り『マルタ騎士団』と呼ばれました。

中近東は現在の国境ができるまで、
何回もその国境線が書き換えられています。
民族だけなく、宗教がらみで絡み合っています。
陸で繫がった国境線のない日本人には
とても理解しがたい複雑な問題を抱えているようです。

800px-Interior_Palazzo_di_Malta_(Roma).jpg
 現在のマルタ騎士団本部 by wiki


十字軍が遠征した都市

当時レバノンにはシリア軍が駐留しており、
シリアの植民地みたいな所もありました。
一応シリアからは独立していましたが、
長年シリアの一部だった歴史があります。
そのためか侵攻はあったものの、
国境は外国人にも開放されていました。

しかし当時は外国人に開放されている国境が少なく、
トリポリから乗ったセルビス(乗合タクシー)で
シリア側の港湾都市タルトゥースに行きました。
この辺りはトルコからレバノンに抜けるルートなので、
外国人も良く利用していたようです。
夜遅くでしたが何とかホテルを探して泊まりました。

当時観光地の紹介が少ないシリアで、
ロンリープラネットの著者がお薦めしていたのが、
『クラック・デ・シュヴァリエ』でした。
中世の十字軍の要塞だそうですが、
どれぐらい重要な物かも知らずに
翌日ツアーに参加して行くことにしました。

キリスト教徒ではない私には、
歴史の中で習った『十字軍』も
中世歴史のひとつにしか過ぎません。
でもヨーロッパの人たちにとっては、
日本人の『戦国時代』に対するような
重要な重いがあるのでしょうか。

『十字軍』はキリスト教徒諸国が
聖地エルサレムをイスラム教諸国から
奪還するために派遣した遠征軍のことです。
ローマ教皇ウルバヌ2世の呼びかけに応じて、
1096年西欧諸国の諸侯が聖地を目指します。

特に南フランスのトゥールーズ伯レーモン4世は
第一回十字軍の指導者的立場でした。
コンスタンティノープルに集結した諸侯達は、
ニカイア、ドリュラエウム、エデッサや
アンティオキアなどで戦いながら
エルサレムまで南下して行きました。

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   第一回十字軍の絵 by wiki



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