地球ワーキングトラベラー見聞記

カナダ、アメリカ、オーストラリアの永住権を持ち、ヨーロッパでの滞在経験もあります。世界100カ国以上回った、私の見聞記を楽しんで下さい。

あいりん地区の安宿に泊まってみた

初日私が大阪で泊まったホテルは、
昔のドヤ街と呼ばれるあいりん地区にありました。
インターネットで調べていたら、
バックパッカーとして利用されているというので、
海外からの旅行者として泊まることにしました。

私の旅行は基本「貧乏旅行」です。
世界中を一人で旅行するためには、
ホテルは1泊US50ドルぐらい、
日本円なら5000円を目安にしています。

先進国ならバックパッカーかユースホステルの
ドミトリーにしか泊まることができませんが、
物価の安い国なら個室に泊まることもできます。

トイレやシャワーは共同でも、
個室に泊まれたら嬉しいですね。
でも清潔、安全となると、
実際に行ってみないと分かりません。

あいりん地区のホテルに泊まるの」と言ったら、
友人に「危険だからやめなさい」と言われました。
知らないというのは非常識な時もありますが、
世界中を旅行していると
もっと危険なところはいくらでもあります。

日本の危険は、世界的に見れば、
充分「安全圏」に入ることは間違いありません。
ましてや言葉がわかるので安心です。
これが全く言葉の通じない国だったら、
危険な場所には泊まりたくないので、
予算以上の高いホテルに泊まることもあります。

「釜ヶ崎」とも呼ばれるあいりん地区
1泊3000円以下のホテルというので、
旅行者として体験してみることにしました。

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    あいりん地区 by gigazin

父に会いに帰ったというのに

私の母親が亡くなったのは2000年12月。
ちょうどハワイに移民しようかなと思って、
シドニーのアパートを片付けて下見に行っていた頃。
ラーメン屋さんの仕事も見つかり、オープンして数日後、
母が亡くなったと突然のメールが来ました。

その年の7月に日本に行っていたので、
母と何年も会っていないということはありませんでした。
初めて海外に移民して以来、仕事で帰ったこともあるけど、
最低でも2年に一度は日本に行っていました。

インターネットが一般化したおかげで、
旅行中でもメールを受け取ることができました。
まだノートブックを持っていなかったけど、
バッパーのPCで読むことが出来ました。

母親が亡くなると日本に行く機会が減りました。
アメリカに仕事に行っていることもありましたが、
2~3年に一度しか行っていませんでした。
日本に行く楽しみがなくなったのが最大の理由です。

父親は淋しかったのかもしれません。
航空券がいかに高いかという感覚はないけど、
ガイドを辞めてからあまり帰国しないので、
「航空券代払うから、、、」と呟いていました。

入院してからも姉に私はいつ来るのか?と
毎日のように尋ねていたそうです。
多分自分の死を感じていたのかもしれません。
姉に「航空券代を渡すように、、、」と
お金を入った封筒を託していました。

もちろんその前に日本に行くことを決めましたが、
すぐに飛んでこない私にイライラしていたかも、、。
普通なら日本に到着したらそのまま会いに行くのが
親孝行を思われることでしょうね。
でも父親がまだ元気だったので
大阪でちょっと友達に会うことにしました。

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     阿蘇山の五岳 by wiki

熊本の思い出 阿蘇山
熊本は私が育ったところです。
なかなか戻ることはありませんが、
熊本の思い出を綴ってみたいと思います。

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父にあうために日本へ

父が入院するとは死が近いということ。
でも入院していると看護もしっかりしているので、
だんだん元気になって回復しているようですが、
出血が止まらない限りは入院と言われたそうです。

現在同じ病院に1か月以上入院できないようで、
市内の病院から町内の病院に変わりました。
そうすると知っている人が入院していたり、
看護婦さんも知っている人がいたようです。

まだ入院したばかりの頃は、
貧血でも食欲はあったようで、
病院食に文句を言っていました。
刺身が食べたい、納豆が食べたい、
上げの果ては酒が飲みたい、、、と。

精密検査の結果「胃がん」と判断され、
いろいろ治療しても出血が止まらないので、
「輸血」だけが頼りでした。
残念ながら回復の見通しなしと言われると、
最後の父の願いを叶えるために、
元気なうちに、好きなものを食べれるように、
義姉は父に持って行ってくれたそうです。

そして父の願いが最後に子供たちに会うこと、
そのため東京にいる姉たちも帰郷することになり、
私もそれに合わせて日本に行くことにしました。
入院していても元気なうちの方が、
私のことも覚えていてくれますからね。

様態が急変することもありえますが、
それだけは神様のみ知りえること、
会える日まで元気でいてくれることを
願うしかありませんでしたが、
何とか神様は私たちの見方をしてくれました。
そして11月日本行の飛行機に乗りました。

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  水辺動物園の遊園地 by ezuko.jp

熊本の思い出 水辺動物園
熊本は私が育ったところです。
なかなか戻ることはありませんが、
熊本の思い出を綴ってみたいと思います。

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頑固な父の思い出、、、

父は昔から我慢強い人でした。
小さいころの私には
「厳しい親父」のイメージしかありません。
父と買い物に行ったこともなければ、
一緒に遊んだ覚えもありませんからね。

忙しくなると農家の手伝いをさせられました。
小さくてガリガリだった私には、
これが結構な重労働でしたね。
木を伐りだしに行ったり、草取りをしたり、
農家の仕事は兄でさえ嫌がっていました。

いくつか楽しい思い出に残っているのは、
まだ土から頭を出していない
筍の見つけ方を教えてくれたことや、
冬炭を焼いているときに横に座って
一緒に暖まったことぐらいでしょうか?

姉が在学中にPTA会長をやっていましたが、
別に誇りに思ったこともありませんでした。
いつも壇上にだって挨拶をしている父は、
家にいるときよりもずっとにこやかで、
一丁前に訓示を垂れているおじさんでした。

お陰で父兄参観日が大嫌いでしたね。
成績は悪くなかったので恥ずかしくはないけど、
来なくても良い父が必ず来ます。
ニコニコしながら外面が良い父が、
まるで優しい父親のふりをしていました。
どちらかというと母親が好きなので、
母が来てくれる方が嬉しかったです。

でも傘を忘れた日、突然豪雨になったときは
カッパ、傘、雨靴を持って迎えにきてくれました。
父の運転する50ccのバイクに乗って、
家まで帰った思い出もありましたね。


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   水前寺公園 by suizennji.or

熊本の思い出 水前寺公園
熊本は私が育ったところです。
なかなか戻ることはありませんが、
熊本の思い出を綴ってみたいと思います。

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健康が取り柄の父が入院

日本とシドニーはわずか1時間の時差ですが、
私も姉も働いているので連絡も難しいです。
ましてやシフトでいろんな時間帯に働いている私、
姉から連絡があるのは電子メールが多いです。

それでも滅多に連絡しない姉なので、
メールが入っていると緊張します。
その時の件目は「父」でした。
私たちの父が入院したという内容でした。

私の父は本当に健康な人で、
一緒に暮らした間に寝込んだことがありません。
60過ぎまで歯医者に行ったことないし、
ましてや病院に入院なんて聞いたこともありません。

そんな健康が取り柄の父が入院なんて、
これは父にとって一大事件でした。
昔から「俺が入院するときは、死ぬとき」
と私たちに行っていたほど健康でした。

早速実家に電話を入れると義姉が出て、
父が貧血で倒れて朝起きれなかったとのこと。
入院して調べたら「胃から出血している」ので、
今後精密検査をするという話でした。

その後原因は「胃がん」とでたようですが、
93歳で「胃がん」と診断されたらどうするか?
末期がんというほどでもないようですが、
手術しても回復する体力があるか?

もちろん父には内緒にしてあるようですが、
いまさら痛い目にあうぐらいなら、
父の体力回復に任せて「手術はしない」
という家族の判断にしたようです。
どれが一番良い判断かは誰にも分かりませんが、
これが父にとって最良の選択だったと思います。

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    熊本城(震災前)by wiki


熊本の思い出 熊本城
熊本は私が育ったところです。
なかなか戻ることはありませんが、
熊本の思い出を綴ってみたいと思います。

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ソーシャルメディアをやっているけど

東日本大震災が起きた年の9月に
姉からメールが届きました。
「連絡がないのは元気な証拠」と言いますが、
私の家族は本当にお互いに連絡しません。
日本に電話するのも年に一回ぐらいかな?

母が生きているときは手紙を書いていました。
それが唯一の親孝行だと思っていました。
当時はあちこち引っ越ししていたので、
国が変わるたびに一応連絡していました。

最近は姪や甥達がSMNをやっているので、
簡単にどうしているのか分かります。
それでも「姉ちゃん今何処にいるの?」と
現在でも移動ばかりしている私に、
ついていけない時もあるようです。

基本的にFacebookもTwitterも
ブログの更新を知らせるための手段。
昔の旅行記を書いているこのブログ
去年の旅行記したことの記事を
少し前まで書いていた別ブログ
現在住んでいる場所が、
全く出てこない記事も多いです。

そんな私ですから姉たちなんて、
今何処に住んでいるのかが
全く頭の中に入っていないようです。
一番下の姉とはスカイプで繋がっていますが、
年上の姉は携帯をやっと使いこなすのみで、
インターネットでさえほど遠いです。

そのための家族に何かあると、
一番下の姉が連絡係になっています。
英語の住所を書くのも苦手だったけど、
今では電子メールで簡単に連絡できます。
私のPCがオンになっていれば、
世界の何処にいても電話で連絡できます。

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     ツイッターもやってます


被災地を訪ねてみたいと思っています

これから私の記事に出てきますが、
この年私は日本に行くことになりました。
日本に行くには目的がありましたが、
この年は要件が要件だったので、
あまり旅行することもできませんでした。

日本に行くとまだ被災地の話題が、
たまにニュースで流れていました。
オーストラリアでは地震の報道は遠ざかり、
福島原発に関する話題ばかりでした。

もしその時心に余裕があったら、
被災地を訪ねてみたい希望もありましたが、
多分その年に現地を見たとしても、
何が私の心にのこったでしょうか?

友人がこの6月に日本に行ったとき、
初めて被災地を尋ねました。
現地には新築された家屋もありますが、
「被災の状況を残して置こう」という
動きがあることを教えてくれました。

友人が訪ねたのは気仙沼。
ここでは地元の写真家の方が、
被災前と被災後を写真に残して、
語り手として紹介されているようです。

体験したからこそ話せること、
体験した方の話だからこそ
知ることのできる真実、
友人から聞いた話だけでも、
涙がこぼれそうになりました。

私は今年日本にいくつもりでいます。
今まで東北に旅行したことのない私ですが、
被災地で元気に暮らしている人たちの姿を
この目で見たいと思っています。

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 東日本大震災復興事業記念貨幣




唯一「原子爆弾」で被災した国なのに、、、

広島や長崎に旅行した時に、
必ず核が落とされた場所に行きました。
特に広島の平和公園にある資料館に行くと、
原爆当時の資料を見ることができます。

遠い記憶でハッキリと覚えていませんが、
古い写真はあまりにも生々しくて、
正視できる自信がありませんでした。

その衝撃はポルポトがいたカンボジアや、
ポーランドのアウシュビッツで体験した、
ものと同じく「信じられない物」でした。

福島原発の爆発による被ばくは、
広島や長崎に落とされた原子爆弾のように、
一瞬にして大量に被ばくはしませんでした。

たしかに原発が爆発した瞬間には
「今すぐ健康に影響する量」ではなくても、
今でも放射能は降り続いています。
何十年も被ばくを続けていれば、
必ず何時かは何かしらの影響を受けるはずです。

Whitefoodが発表した東京の放射能汚染は、
2013年から2016年にかけて
測定した結果のデータですが、
東京の広範囲で放射能汚染が
広がっていることを証明しています

2020年の東京オリンピック開催、
わずか3年後ということで
着々と準備も進んでいるようですね。

私もボランティアで参加したいという夢があります。
しかし「まだ安全と言えない東京」で
数か月暮らしたらどれだけ被ばくするのか?
若かったら先のことを考えてしまいます。

8月6日 午前8時15分 ヒロシマ
8月9日 午前11時2分 ナガサキ
原子爆弾で被ばくして、
亡くなられた方々の冥福をお祈りします。

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    広島原爆ドーム by wiki

原子力発電所は必要ですか?

日本の原子力発電所の数は43基、
アメリカ、フランスに次いで世界第3位、
アメリカが日本の25倍以上、
フランスでも1.5倍ありますから、
面積当たりでは日本の数が多くなります。

アメリカは太平洋岸では地震が多いですが、
フランスではM6以上の地震は、
あまり聞いたことありませんよね。
それに比べて地震国大国「日本」に
これだけの原発があるのは怖い話です。

それぞれ「お国の事情」もあるのでしょうが、
原発に頼らなくても賄えるのなら、
原発のない国にすべきなのかもしれません。

オーストラリアはウラン産出国です。
原子力発電所は一基もありません。
しかしウランを採掘している地方や、
英国が核実験を砂漠でやってさいに、
放射能汚染した方々たくさんいます。

フランスが南太平洋にある仏領で
核実験を繰り返しやっていた1980年代、
NZやオーストラリアの各地では、
核実験反対抗議デモが行われました。

オーストラリアは天然ガスの大量輸出で、
エネルギー不足に落ち入ろうとしています。
原子力発電所を唱える議員もいますが、
一般市民は反対の人が多いです。

将来的には石炭火力発電所を
ストップしようと計画いていますが、
その代替え発電所として、
原子力が囁かれるのに危機を感じます。


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      原子力 さようなら

No more Hiroshima, No more Fukushima

東大日本震災の被災地救援活動や
福島原発で被災した人達の救援活動は、
このシドニーのみならず、
オーストラリア各地で行われました。

私のドイツ時代からの友達で、
シドニーでレイキ活動をしているAmiさんも、
当時仲間たちといろんな活動をしていました。
私は仕事にかまけて何もしませんでしたが、
ささやかな寄金だけさせてもらいました。

オーストラリア各地では、
原子力に反対する運動が盛んです。
以前は「No more Hisoshima」でしたが、
この事故以来、スローガンには、
「No more Hiroshima, No more Fukushima」
と書かれるようになりました。

広島の発音に似ているから、
外国人にも発音しやすいようですが、
それまで知られていなかった「福島」が、
今では世界中の人に知られました。

1986年4月ウクライナ(当時ソ連)の
チェルノブイル原子力発電所が爆発した時、
私はたまたま東南アジアを旅行していたので、
そのニュースを詳しく聞くこともありませんでした。

しかしその後この名前を聞くたびに、
まだ行ったことのないウクライナですが、
世界最大の原発事故=チェルノブイリ
というイメージがまとわりついていました。

そして今世界中の人たちの記憶に
世界最大の原発事故=フクシマ
というイメージが焼き付けられたのです。

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     No More Fukushima

福島原発の爆発

東日本大地震の被害だけでなく、
その後発生した津波によって
過去の歴史にないほどの大被害になりました。
しかしこの地震を世界的に有名にしたのは、
「福島第一原子力発電所」の事故によります。

最初の数日は地震の被災の報道が圧倒的でしたが、
福島原発の爆発」が報道されると、
日に日に「福島」という言葉が、
こちらのニュースでも大きく取り上げられ、
世界中を「放射能の脅威」で
振るわせることになりました。

外国企業は東京在住の社員を
急遽帰国させたところもあったし、
私の友人はこの数日後に沖縄に移住しました。
日本を脱出する人たちも増えました。

その中には当時官房長官だった
「枝野さん」の家族もいたようです。
たまたま旅行中だと答弁されていましたが、
彼が避難させたのかもしれませんね。

日本のニュースを見ていると、
当時の枝野官房長官は、
24時間メディアの対応をしていました。

原発から20~30km以内の放射線量や
牛乳やホウレンソウから基準を超える
放射性ヨウ素が検出されても、
「直ちに人体や健康に影響を及ぼす
基準値ではない」と繰り返していました。

たまたま運が悪いときに官房長官になったのか、
これも彼の運命だったのかもしれませんが、
まだ政治家を続けていると聞いて、
とっても信じられない私です。

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   福島原子力発電所 by SMH

オーストラリアから救済支援の手

日本で地震が発生する前に
クライストチャーチで地震があったとき、
日本人の被災者が多かったということもあり、
あの小さな街にたくさんの日本人メディアが訪れました。

日本から派遣できないような報道会社は、
シドニーで報道番組を制作している会社に、
急遽取材を頼んだようです。
私の友人たちもすぐに飛んでいきました。

日本語でニュースを聞くことによって、
日本に住んでいる人たちも、
被災にあった日本人がどうなっていたのか、
詳細なことを知ることができました。

それとは反対に海外のメディアが日本に行くと、
かなり熾烈な意見が飛び交っていました。
「こんな被状状態の時に、、、」と。

でも現地入りして、被災者に尋ねないと、
「被災された人達は何を必要としているのか」
「何が困っているのか」知ることはできません。
被災にあったのは日本ですが、
救済の手は日本各地のみならず、
世界中から暖かい手が届くのです。

オーストラリアにあるNGO
「Save the Children Australia」は
被災地で困っている子供たちのために、
「RSPCA Australia」は動物愛護団体ですが、
おろそかにされがちなペットたちの救済にと、、、
それぞれ日本のNGOと提携して、
救済支援の活動をしました。

個人で日本に飛んだオーストラリア人もいます。
片言の日本語しか話せないけど、
日本に憧れていた若者が、
観光のためではなくボランティアとして、
仕事を休んでまで行ったのには感動しました。

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   復興イベントで作られたサクラ


オーストラリア人の目で被災を見る

オーストラリアの朝の報道番組「Today」の
司会者を務めるカールは、その日に成田に飛び、
翌日には現地に到着していました。

オーストラリアは人口が少ないですが、
近いということもあり日本に住んでいる人もいます。
日本語が話せないオーストラリア人にとって、
災害が発生した日本で、今何が起こっているのか、
こちらのニュースだけでは情報が入りません。
オーストラリアのメディアが現地入りすることにより、
こちらにも必要な情報が入ってきます。

道路も遮断していて、宿泊所さえない時でした。
現地はまだ右往左往していて、
被害の状況も判断できなければ、
余震で今後もどうなるか分からない状態でした。

オーストラリア人のジャーナリストだけでなく、
世界中のジャーナリストが日本に行きましたが、
震災の中心地まで行った人は少ないと思います。
救済物資だって被災地まで届かない状態でしたが、
被災地がまだその余裕もありませんでした。

ジャーナリストが被災地まで飛ぶのに、
ヘリコプターやガソリンを使います。
「救済優先で使うべきだ」とか
「現地が地獄のような状態の時に出かけるとは?」
という意見も多かったようですが、
私は現地入りしたジャーナリストに賛成でした。

少ないオーストラリア人ですが、
被災地に旅行したり、住んでいる人もいます。
その家族はやはり「どうなっているのか」
気がきではなかったはずです。
オーストラリア人のジャーナリストが現地入りして、
現場の情報を伝えて来れば、
正確な情報が入ってきますからね。


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   陸前高田の「一本松」by SMH

津波の実況中継を見ながら

マグニチュード9で日本周辺では
「観測史上最大の地震」となった
2011年3月の東日本大震災の映像は、
ものすごく衝撃的なものでした。

地震によって大きな津波が発生していました。
しかし何とか地震を切り抜けた住民の中には、
普段と同じような生活をしている人もいました。

海岸線から大きな津波が押し寄せているというのに、
普段と同じように道路を歩いている人、
昨日と同じように車を運転している人
そこには毎日繰り返されていたことを、
昨日と同じように過ごしている人たちばかりでした。

上空からはヘリコプターに乗った、
カメラマンがその様子を映し出しています。
レポーターは「津波が来ています」
とマイクに向かって叫んでいますが、
車を運転している人や歩いている人に、
その声が伝わるわけもありませんよね。

いくら大きな声で叫んでみても、
ヘリコプターの音に消されてしまいます。
テレビのこちら側では沢山の人たちが、
「逃げて!逃げて!」と叫んでいたでしょう。
でもその声も届くはずもありません。

さすがに人が津波に飲み込まれる瞬間は
映像では放送されませんでしたが、
それは誰にも想像できるできことでした。

あまりにも衝撃的過ぎて、
今でも映画の1シーンとしか思えません。
それを信じることは絶対にできないほど、
私の想像の限界を超えていました。

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    津波の写真 by SMH.com



東北で地震が発生したとき

クライストチャーチで地震が発生してから、
わずか3週間もしないうちに。
今度は宮城県沖で地震が発生しました。

その日私は仕事の日でした。
金曜日というのでルンルンですが、
翌日が私の誕生日なので、
ちょっと高いワインを買って帰りました。

帰宅するといつのもようにシャワーを浴びて、
夕食を作りながら、ニュースを見ます。
夏は日本との間に2時間の時差があるので、
午後5時のニュースをつけると、
「緊急ニュース、日本で地震が発生」と
画面の下のように字幕が流れていました。

日本時間の午後3時ごろなので、
詳しい情報は入っていませんでした。
その後午後6時、午後7時と
遅い時間帯のニュースになるにつれて、
地図や映像も入った内容が紹介されましたが、
それでも詳しい内容ではありませんでした。

インターネットが生活に普及してから、
今日本で放送されている番組を
中国経由のサイトで見ることができます。
日本の番組にあまり興味がないので
普段は殆ど見ることもありませんが、
その日は日本のニュースを検索しました。

NHK Worldを無料で見ることができます。
でも海外向けの放送のために英語のみ、
日本国内の詳細までは放送しない時も多いです。
ところがこんな緊急事態が発生すると、
海外に住む日本人在住者のために、
現在放送されているニュース番組を
時差なしで中継放送してくれました。

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    NHKワールドオンライン

オーストラリア航空最後の搭乗

ジェットスターを利用しても安いチケットでは
カンタスのポイントに加算されませんが、
オーストラリア航空は加算されました。
ラウンジも出発前に利用できるので、
私にとってはとても便利でした。

当時はカンタス航空が就航しない
福岡、名古屋、札幌(冬季のみ)に運行。
ケアンズ経由という不便はありましたが、
実家に行くなら東京経由で帰るより、
こちらの方が時間的にも便利ですね。

その時ケアンズ行きの飛行機が遅れて、
乗り換えに30分もありませんでした。
到着したら追い立てられるように移動。
ターミナルが狭いので乗り換えも便利ですが、
ゴールドコーストから乗り換えの客も多く、
何とか福岡行きの飛行機に間に合いました。

福岡に予定よりも遅れて到着しましたが、
最後まで待っても荷物がきません。
人は乗り換えることができても、
荷物の移動までは間に合わなかったようです。
結局日本航空のグランドスタッフが手続きして、
到着後、実家まで送ってもらうことになりました。

税関検査があるので鍵も預けますが、
今回はスモークサーモンを預けたので、
日本やケアンズの暑さで腐れないか心配でした。
この手続きに時間がかかってしまい
入国するのがすっかり遅くなりました。

この日は福岡にいる姪の家に、
初めて泊まることにしていたのですが、、。
スーパーによって買い物をしようとしたら、
Tシャツや下着ぐらいなら新しいのがあると、
わざわざ買わなくても良いと言われました。
姪は私よりかなり痩せていますが、
何とか用意してもらった服で間に合いました。

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   イラワラフレームツリー by wiki

オーストラリアのお花シリーズ
真っ赤な炎のような『フレームツリー』

ちょうどジャカランダが咲く頃、
夏の初めに真っ赤な花が咲きます。
まるで炎のように見えるところから
『フレームツリー』と呼ばれる。

フレームツリーは幾つかありますが、
シドニー周辺で咲くのは
高さが20m近くまで大きくなる
イラワラフレームツリーです。

このエッセンスは拒絶されたりして
打ちひしがれた状態や、
責任の重圧に屈してしまいそうな人を
サポートしてくれるそうです。

幼馴染のひとみちゃん


私の田舎には幼馴染みもいます。
同級生は隣のひとみちゃん。
お兄さんが三人もいる一人娘でした。
小学校はひとクラスだったので
6年間一緒に通学しましたが、
中学、高校と全く別のクラスでした。

色白のひとみちゃんは体格も良く
バスケなどスポーツが得意でした。
色黒で痩せこけていた私は
病気ばかりでスポーツは不得意、
本を読んだり文科系が好きでした。

高校ではクラスは違っても、
同じアマチュアハムクラブに入部しました。
同じ中学からの同級生と4人一緒で
男子の中で頑張っていました。
夏休みには免許もとって、
学校の無線を使って交信していました。

ひとみちゃんは高校卒業して数年で
お兄さんの友達と結婚していました。
子供も大きくなり孫が生まれていました。
農家に嫁いだので時間的余裕がなく、
帰国しても会う時間もありませんでしたが、

母の葬式の前後に会いに来てくれました。
今度帰国したら再会を約束していたので、
電話を入れドライブに出かけました。
彼女が連れて行ってくれたのは阿蘇山。
と言っても雨が降っていたので、
ドライブインで食事をして帰っただけです。

卒業してから初めて二人で会いました。
家族のこと、いろいろ話してくれましたが、
私はゆっくりと聞いているだけでした。
私の生活を話しても理解してもらえません。
何処にいるのか、何をしているのかぐらいです。
しかし幼馴染の絆は切れていませんでした。

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     彼岸花 by wiki



母の一周忌

その年の12月、日本に行きました。
冬が嫌いな私がこの時期に行ったのは
母の一周忌が行われたためです。
母は年末に亡くなりましたが、
仕事している家族の都合もあり、
12月の初旬に行われました。

これなら姉たちも安く帰郷できます。
私も観光客が少ない時期だったので、
予約も簡単に入れることができました。

前年に2度も帰国したので、
特に観光するところもありませんでした。
母の一周忌を弔うためだけの帰国です。
今回参加したのは身内だけでした。
母と父の兄弟が参加しましたが、
遠くに住んでいる人はきませんでした。

まあ私にとってはその方が気楽です。
知らない親族の話に合わせるより
自分の兄姉や田舎にいるその家族だけで
かなりの人数になりますからね。

田舎のお坊さんは世襲制ですが、
姉の同級生が継いでいました。
学生時代を知っている姉は
同級生のお坊さんに読経されても
あまり有難くは思っていませんでした。

読経が終わると家で食事会です。
仕出しをしてもらって簡単に済ませます。
もちろんお酒を欠かすことはありませんが、
お坊さんも結構飲んでいましたね。
これで自分で運転して帰るのですよ。

警察官もひとりしかいない田舎です。
飲酒運転の取り締まりをする暇もありませんが、
やっぱり飲酒運転はいけませんよね。
と他のことが気になる一周忌でした。

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      彼岸花 by wiki

私の21世紀の始まり

誰が亡くなってもお正月はやって来ます。
何年ぶりかで『紅白歌合戦』を見ました。
家にテレビが何台かあったので、
何年と見ていない私のために『紅白歌合戦』
知っている人が半分もいませんが、
まあ年の締めと言うことで昔の恒例ですから、、。

小さい頃だったら父は途中から抜け出します。
近くにある神社の『神楽』の笛を担当していたので、
初詣に来る人たちの準備をしていました。
今は兄がやっていますが、この時も行きました。
家事よりもこれが優先されるのです。

兄が小さい時は『神楽の舞て』をしましたが、
甥っ子も小さい時にやっていました。
もう大きくなったので舞うことはなくなりましたが、
この年はもちろん『初詣』もありませんでした。

元旦になれば『お年玉』はつきものですが、
こんな時はどうなるのでしょうね。
家に小さい子供が居なかったので、
誰も『お年玉』とねだる人はいませんでした。

でも姉達は親戚周りをする度に、
そこに高校生以下の子供がいたなら、
『お年玉』を上げていましたね。
子供がいない私には縁のないこと、、。
いくつになっても『まだ貰いたい方』です。

この日、姪の婚約披露宴がありました。
兄の長女はすでに結婚していましたが、
次女がこの日に入籍をすることになり、
休みに入る前にすでに役場に届け出ていました。

まさか母が亡くなるとは誰も思っていないので、
一度は披露宴は辞めるつもりでいたそうですが、
家族だけの披露宴のために、
そのまま家で祝うことになりました。

次女の旦那はダンプの運転手さんでした。
彼女が現場で仕事をしている時に知り合い
少しづつおつきあいが始まったとか?
時代の流れをひしひしと実感した瞬間でした。

そう言えば私にとって20年ぶりの日本のお正月
海外に移民して殆ど冬の日本で過ごす機会もなかったので。
たまたま日本にいた時は添乗員をしていて、
やっぱり海外で新年を迎えていたのでした。
そして私の『21世紀の始まり』でもありました。

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  田舎で咲いていた花@12月熊本


田舎の花
この花は12月に田舎に行った時に撮った写真です。
私は田舎のあぜ道に咲いている花が好きです。
熊本の大地は12月になれば冷え込みます。
それでもよく見ると花が咲いています。

ただ花の名前は全く分かりません。
調べる方法もないのでお許し下さい。
きっと今年もこの花は咲いていることでしょう。


『花札』が好きな家族

葬式が終わると何もすることはありません。
田舎では年末の休暇も関係なく、
何処の家でも正月の支度に忙しかったです。
テレビでは忙しい都会の様子が映し出されていますが、
それも全く関係のない我が家でした。

お正月の支度は一切ありませんでした。
鏡餅もなければお節の用意もありません。
毎日することもないのですが、
淡々と日々は過ぎて行きました。

姉の旦那達は一足先に家に戻りましたが、
姉達は正月過ぎまで実家に滞在しました。
そのために久しぶりに兄弟5人が揃いました。
と言っても一番上の姉は嫁ぎ先に帰りましたが、。

熊本市内から20km離れた田舎では
カフェもなければゲーセンもありません。
我が家で食べて、遊ぶしかないのです。

我が家のゲームと言えば、『将棋と花札
これは父の影響を受けて小さい時から
家族皆で楽しんでいたような気がします。
特に花札は家族で出来ますからね。

花札は地方によって役もことなるようですが、
『月見て一杯』とか『花見て一杯』などの
我が家独特の役もあったような気がします。
子供相手と言いながら父は加減しません。

座布団の上に花札を並べていると、
小さい時を遊んだ記憶が出て来ました。
子供の手には分厚い花札を切るのが難しく
あちらこちら飛び跳ねていました。

それでも花札の仲間に入れてもらうと
何だか大人になったような気がしました。
ましてや一回でも勝負に勝てると、
一番年下の私が偉くなった気分でした。
母はこんなゲームを一切しない人でした。
今頃空の上から笑っているかもしれません。


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  田舎で咲いていた花@12月熊本


田舎の花
この花は12月に田舎に行った時に撮った写真です。
私は田舎のあぜ道に咲いている花が好きです。
熊本の大地は12月になれば冷え込みます。
それでもよく見ると花が咲いています。

ただ花の名前は全く分かりません。
調べる方法もないのでお許し下さい。
きっと今年もこの花は咲いていることでしょう。



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