地球ワーキングトラベラー見聞記

カナダ、アメリカ、オーストラリアの永住権を持ち、ヨーロッパでの滞在経験もあります。世界100カ国以上回った、私の見聞記を楽しんで下さい。

オーストラリア航空最後の搭乗

ジェットスターを利用しても安いチケットでは
カンタスのポイントに加算されませんが、
オーストラリア航空は加算されました。
ラウンジも出発前に利用できるので、
私にとってはとても便利でした。

当時はカンタス航空が就航しない
福岡、名古屋、札幌(冬季のみ)に運行。
ケアンズ経由という不便はありましたが、
実家に行くなら東京経由で帰るより、
こちらの方が時間的にも便利ですね。

その時ケアンズ行きの飛行機が遅れて、
乗り換えに30分もありませんでした。
到着したら追い立てられるように移動。
ターミナルが狭いので乗り換えも便利ですが、
ゴールドコーストから乗り換えの客も多く、
何とか福岡行きの飛行機に間に合いました。

福岡に予定よりも遅れて到着しましたが、
最後まで待っても荷物がきません。
人は乗り換えることができても、
荷物の移動までは間に合わなかったようです。
結局日本航空のグランドスタッフが手続きして、
到着後、実家まで送ってもらうことになりました。

税関検査があるので鍵も預けますが、
今回はスモークサーモンを預けたので、
日本やケアンズの暑さで腐れないか心配でした。
この手続きに時間がかかってしまい
入国するのがすっかり遅くなりました。

この日は福岡にいる姪の家に、
初めて泊まることにしていたのですが、、。
スーパーによって買い物をしようとしたら、
Tシャツや下着ぐらいなら新しいのがあると、
わざわざ買わなくても良いと言われました。
姪は私よりかなり痩せていますが、
何とか用意してもらった服で間に合いました。

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   イラワラフレームツリー by wiki

オーストラリアのお花シリーズ
真っ赤な炎のような『フレームツリー』

ちょうどジャカランダが咲く頃、
夏の初めに真っ赤な花が咲きます。
まるで炎のように見えるところから
『フレームツリー』と呼ばれる。

フレームツリーは幾つかありますが、
シドニー周辺で咲くのは
高さが20m近くまで大きくなる
イラワラフレームツリーです。

このエッセンスは拒絶されたりして
打ちひしがれた状態や、
責任の重圧に屈してしまいそうな人を
サポートしてくれるそうです。

幼馴染のひとみちゃん


私の田舎には幼馴染みもいます。
同級生は隣のひとみちゃん。
お兄さんが三人もいる一人娘でした。
小学校はひとクラスだったので
6年間一緒に通学しましたが、
中学、高校と全く別のクラスでした。

色白のひとみちゃんは体格も良く
バスケなどスポーツが得意でした。
色黒で痩せこけていた私は
病気ばかりでスポーツは不得意、
本を読んだり文科系が好きでした。

高校ではクラスは違っても、
同じアマチュアハムクラブに入部しました。
同じ中学からの同級生と4人一緒で
男子の中で頑張っていました。
夏休みには免許もとって、
学校の無線を使って交信していました。

ひとみちゃんは高校卒業して数年で
お兄さんの友達と結婚していました。
子供も大きくなり孫が生まれていました。
農家に嫁いだので時間的余裕がなく、
帰国しても会う時間もありませんでしたが、

母の葬式の前後に会いに来てくれました。
今度帰国したら再会を約束していたので、
電話を入れドライブに出かけました。
彼女が連れて行ってくれたのは阿蘇山。
と言っても雨が降っていたので、
ドライブインで食事をして帰っただけです。

卒業してから初めて二人で会いました。
家族のこと、いろいろ話してくれましたが、
私はゆっくりと聞いているだけでした。
私の生活を話しても理解してもらえません。
何処にいるのか、何をしているのかぐらいです。
しかし幼馴染の絆は切れていませんでした。

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     彼岸花 by wiki



母の一周忌

その年の12月、日本に行きました。
冬が嫌いな私がこの時期に行ったのは
母の一周忌が行われたためです。
母は年末に亡くなりましたが、
仕事している家族の都合もあり、
12月の初旬に行われました。

これなら姉たちも安く帰郷できます。
私も観光客が少ない時期だったので、
予約も簡単に入れることができました。

前年に2度も帰国したので、
特に観光するところもありませんでした。
母の一周忌を弔うためだけの帰国です。
今回参加したのは身内だけでした。
母と父の兄弟が参加しましたが、
遠くに住んでいる人はきませんでした。

まあ私にとってはその方が気楽です。
知らない親族の話に合わせるより
自分の兄姉や田舎にいるその家族だけで
かなりの人数になりますからね。

田舎のお坊さんは世襲制ですが、
姉の同級生が継いでいました。
学生時代を知っている姉は
同級生のお坊さんに読経されても
あまり有難くは思っていませんでした。

読経が終わると家で食事会です。
仕出しをしてもらって簡単に済ませます。
もちろんお酒を欠かすことはありませんが、
お坊さんも結構飲んでいましたね。
これで自分で運転して帰るのですよ。

警察官もひとりしかいない田舎です。
飲酒運転の取り締まりをする暇もありませんが、
やっぱり飲酒運転はいけませんよね。
と他のことが気になる一周忌でした。

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      彼岸花 by wiki

私の21世紀の始まり

誰が亡くなってもお正月はやって来ます。
何年ぶりかで『紅白歌合戦』を見ました。
家にテレビが何台かあったので、
何年と見ていない私のために『紅白歌合戦』
知っている人が半分もいませんが、
まあ年の締めと言うことで昔の恒例ですから、、。

小さい頃だったら父は途中から抜け出します。
近くにある神社の『神楽』の笛を担当していたので、
初詣に来る人たちの準備をしていました。
今は兄がやっていますが、この時も行きました。
家事よりもこれが優先されるのです。

兄が小さい時は『神楽の舞て』をしましたが、
甥っ子も小さい時にやっていました。
もう大きくなったので舞うことはなくなりましたが、
この年はもちろん『初詣』もありませんでした。

元旦になれば『お年玉』はつきものですが、
こんな時はどうなるのでしょうね。
家に小さい子供が居なかったので、
誰も『お年玉』とねだる人はいませんでした。

でも姉達は親戚周りをする度に、
そこに高校生以下の子供がいたなら、
『お年玉』を上げていましたね。
子供がいない私には縁のないこと、、。
いくつになっても『まだ貰いたい方』です。

この日、姪の婚約披露宴がありました。
兄の長女はすでに結婚していましたが、
次女がこの日に入籍をすることになり、
休みに入る前にすでに役場に届け出ていました。

まさか母が亡くなるとは誰も思っていないので、
一度は披露宴は辞めるつもりでいたそうですが、
家族だけの披露宴のために、
そのまま家で祝うことになりました。

次女の旦那はダンプの運転手さんでした。
彼女が現場で仕事をしている時に知り合い
少しづつおつきあいが始まったとか?
時代の流れをひしひしと実感した瞬間でした。

そう言えば私にとって20年ぶりの日本のお正月
海外に移民して殆ど冬の日本で過ごす機会もなかったので。
たまたま日本にいた時は添乗員をしていて、
やっぱり海外で新年を迎えていたのでした。
そして私の『21世紀の始まり』でもありました。

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  田舎で咲いていた花@12月熊本


田舎の花
この花は12月に田舎に行った時に撮った写真です。
私は田舎のあぜ道に咲いている花が好きです。
熊本の大地は12月になれば冷え込みます。
それでもよく見ると花が咲いています。

ただ花の名前は全く分かりません。
調べる方法もないのでお許し下さい。
きっと今年もこの花は咲いていることでしょう。


『花札』が好きな家族

葬式が終わると何もすることはありません。
田舎では年末の休暇も関係なく、
何処の家でも正月の支度に忙しかったです。
テレビでは忙しい都会の様子が映し出されていますが、
それも全く関係のない我が家でした。

お正月の支度は一切ありませんでした。
鏡餅もなければお節の用意もありません。
毎日することもないのですが、
淡々と日々は過ぎて行きました。

姉の旦那達は一足先に家に戻りましたが、
姉達は正月過ぎまで実家に滞在しました。
そのために久しぶりに兄弟5人が揃いました。
と言っても一番上の姉は嫁ぎ先に帰りましたが、。

熊本市内から20km離れた田舎では
カフェもなければゲーセンもありません。
我が家で食べて、遊ぶしかないのです。

我が家のゲームと言えば、『将棋と花札
これは父の影響を受けて小さい時から
家族皆で楽しんでいたような気がします。
特に花札は家族で出来ますからね。

花札は地方によって役もことなるようですが、
『月見て一杯』とか『花見て一杯』などの
我が家独特の役もあったような気がします。
子供相手と言いながら父は加減しません。

座布団の上に花札を並べていると、
小さい時を遊んだ記憶が出て来ました。
子供の手には分厚い花札を切るのが難しく
あちらこちら飛び跳ねていました。

それでも花札の仲間に入れてもらうと
何だか大人になったような気がしました。
ましてや一回でも勝負に勝てると、
一番年下の私が偉くなった気分でした。
母はこんなゲームを一切しない人でした。
今頃空の上から笑っているかもしれません。


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  田舎で咲いていた花@12月熊本


田舎の花
この花は12月に田舎に行った時に撮った写真です。
私は田舎のあぜ道に咲いている花が好きです。
熊本の大地は12月になれば冷え込みます。
それでもよく見ると花が咲いています。

ただ花の名前は全く分かりません。
調べる方法もないのでお許し下さい。
きっと今年もこの花は咲いていることでしょう。



母の葬式 その2『悲しみがこみ上げて来るとき』

葬式と言っても当家の女性達は
悲しんでいる暇もありませんよね。
親戚や周辺の人達が来る度に
挨拶をしたり食事やお酒の用意をしたり、、。

嫁に行った姉達は実家ではお客さん。
私は嫁に行っていないので、
実家では半分だけお客さんですね。
あまり家のことを手伝うと、
義姉の面目もありませんからね。

どうせ洋服も持っていないし、
帰国していると思っている人も少ないので、
陰に隠れて家事の手伝いをしていました。
母が亡くなったと言うのに
お酒を飲んで騒ぐのは嫌いでした。

親戚にお悔やみを言われても
あまり悲しみがこみ上げて来ないのに、
母方のおばさん達の顔を見た時には、
今まで堪えていたものが胸の内から
一気にこみ上げて本気で悲しかったです。

母は6人姉妹の長女でした。
おばさん達にとっては一番上の姉、
母にそっくりの彼女らの顔を見ていると、
学校を卒業してこの家を出てから
あまり会うことのなかった頃の
母の顔を年代別に見ているようでした。

このおばさん達となら心の奥から
同じ悲しみを分かち合える気がしました。
特にすぐ下の叔母は母の実家にいるので、
小さい時から一番親しかったですが、
母と同じ眼差しで私を見つめてくれました。

一度も海外に行ったことのない母ですが、
私が絵はがきを書く度に大切に保存していました。
母にとっては私が世界への窓口だったかな?
国民小学校しか行っていない母ですから、
昔の仮名遣いで返事をくれました。
それは今の私にとって一番大事な宝物です。

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  田舎で咲いていた花@12月熊本


田舎の花
この花は12月に田舎に行った時に撮った写真です。
私は田舎のあぜ道に咲いている花が好きです。
熊本の大地は12月になれば冷え込みます。
それでもよく見ると花が咲いています。

ただ花の名前は全く分かりません。
調べる方法もないのでお許し下さい。
きっと今年もこの花は咲いていることでしょう。



母の旅立ちの日

ホノルルから福岡まで直行便だったので、
9時間ほどのフライトですが時差があり、
翌日に到着することになりました。

福岡に到着して、熊本行きのバスに乗ると、
昨日までハワイにいたのが不思議でした。
まるでシドニーから戻って来たような錯覚。
ましてや4ヶ月前に日本に来ていたので、
そのまま旅をしているような雰囲気です。

交通センターまで行くバスですが、
いつも県庁辺りで降りると、
姪が迎えに来てくれていました。
姉達も帰郷しているようですが、
皆な葬式で忙しかったようです。

大晦日を数日後に控えた年の瀬、
すでに正月の飾りなども販売されていました。
熊本は夏は暑いけど、冬は冷えます。
ハワイから来たばかりで冬服なんてありません。
姪っ子に暖かい服を持って来てくれるように
ハワイから電話して頼んでおきました。

こういう時の挨拶ってぎこちないですね。
姪は母なので私に気を使ってくれていますが、
私は母が亡くなったその場面にも、
火葬にも立ち会っていないので、
何時も同じ顔をしていたと思います。

自宅について挨拶代わりに兄が
『母ちゃんの死なしたもんね』と言われても、
なんと返事をして良いのかわかりません。
私は母の側にいてくれた義姉に
『母がお世話になりました』と
労いの言葉をかけるしかありませんでした。

母はお風呂の中で眠るように亡くなったそうです。
一日前は近所に住む母の年下のおじさんが亡くなり、
その葬式に行くために美容院に行って来たばかりで、
いつもよりとってもきれいな顔をして
天国への旅立つことができたそうです。
おじさんと一緒なら寂しくないかもしれません。

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田舎で咲いていた花@12月熊本


田舎の花
この花は12月に田舎に行った時に撮った写真です。
私は田舎のあぜ道に咲いている花が好きです。
熊本の大地は12月になれば冷え込みます。
それでもよく見ると花が咲いています。

ただ花の名前は全く分かりません。
調べる方法もないのでお許し下さい。
きっと今年もこの花は咲いていることでしょう。


田舎の歴史を掘り起こせば、、、

日本の歴史は長いですが、
こうやって掘り起こしてみると
それなりに重要な歴史が残っています。
小さい時に習うことも殆どなく、
何となく皆から聞いた物ばかりでした。

故郷の歴史に興味がある人は少ないかもしれません。
特に山を越えて海を渡ることに憧れ
海外を夢見ていた私にとって、
水田が広がる田舎の景色は
ただつまらない生活の場でした。

しかしその米を作るために必要な水を
この地域に引くために井手が作られ、
水源を作るための植樹がされたとは、、。
昔から自然に水が沸いていたのではなく、
人の努力によって作られたものだったのです。

何気なく何時も利用していた水
それが当たり前だと思っていたために、
改めてその歴史を学ぶと
普通のことも有り難く感じます。

こうやって故郷の記事を書くことになり、
インターネットと言う情報のお陰で
郷土の藩士『宮部鼎蔵』のことも、
もっと詳しく知ることができました。

『通潤橋』はとても有名でしたが、
『八勢目鑑橋』や『下鶴目鑑橋』は
いつも普通に利用していたせいか
その価値を改めて認識しました。

『通潤橋』の副棟梁だった『橋本勘五郎』は
その腕を認められ上京して
『万世橋』や『浅草橋』などの
東京で有名な橋も建造しています。
『二重橋』も建造したというものもありますが、
これはハッキリとしていないそうです。

私がいつも通っていた道路が
熊本と宮崎を結ぶ『日向往還』の一部だったとは
この記事を書くまで知りませんでした。
そんな街道があったことも知ることもなく
毎日バスに揺られて通学していました。

もちろんその先にある矢部や高千穂も
何度も行ったことがあると言うのに、、。
歴史的な街道が近くにあったのですね。
今度田舎を尋ねるときは、
改めに歴史を認識しなたら歩いてみたいです。

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    田舎の風景『私の実家』

田舎の思いで その17『母との思いで』

家にいたので比較的楽でした。
兄はゆっくり滞在するように言いましたが、
家にいてもすることはないので、
予定通り帰国することにしました。

肩を固定するために包帯をしていましたが、
熊本の夏は暑くあせもができました。
その上から洋服を着たら死ぬ程\ほど暑くて、
家にいる間は包帯だけで過ごしました。

実家にいるより涼しいシドニーの方が
包帯をしていても楽なようです。
二週間するようにいわれましたが、
そのまま実家にいたら暑さに負けそうです。

実家に別れを告げ日本を離れました。
私にとって思い出の夏になりましたが、
これが母に会う最後になるとは?
もし分かっていたらゆっくりしたかも。
もっと母に甘えて食べたい物を
作ってもらっていたかもしれません。

あれから十数年後に書いていても、
昨日のことのように思い出されます。
私は母の最後の子供でした。
お陰で母と過ごした時間が一番短いです。

『あんたは私の死に目に会えないよ』
といつも言われていましたが。
誰も彼女の死に目には会えませんでした。

海外で暮らしているので、
母の葬式にも間に合いませんでした。
そのせいかまだ母が生きているようです。
実家に戻って玄関の戸を開けたら、
『お帰り』と迎えてくれるようです。

まだお母さんがいらっしゃる皆さん。
お母さんが生きている間に
たくさんの思い出を作っておいて下さい。
母のことは生きている間忘れないけど、
思い出が作れないのが寂しいです。

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    田舎の風景『通潤橋』

田舎の思いで『通潤橋』
『八勢目鑑橋』『下鶴目鑑橋』を建設した
橋本勘五郎の代表作が『’通潤橋』です。
橋は人を渡すためではなく
通水路として利用されています。

ひとつのアーチ型の石橋としては日本で2番目
通水路の石橋としては一番長い橋です。
熊本の石工の技術の高さを見ることができ、
国の重要文化財に指定されています。

隣町にありますが、叔父が家を建てると
祖父と祖母も一緒に住むことになり
私も遊びに行く機会ができました。

毎年9月初めに『八朔祭り』があります。
花火大会もありますが、
一年に一度『放水』されるのが楽しみでした。
この橋の上を歩くこともできますが、
高い所が苦手な私は怖くて渡れませんでした。



田舎の思いで その16『昔のお嬢さんです』

軽い事故で終わって助かりました。
治療が済むと家に電話を入れて、
義姉に連絡を取ってもらいました。
病院が確定していなかったので、
何処にいるか伝える必要があります。
皆が携帯を持っている時代で助かりました。

治療費は3万円ぐらいで済みました。
海外で治療を受けたらもっと高く
医師の所見料だけでも、
これより高く取られたかもしれません。

病院で待っていると一時間程して
義姉と姪が迎えにきてくれました。
お腹も空いていたので、
夕ご飯を食べて帰ることにしました。

入院する必要はありませんでしたが、
一応準備をしてきてくれたようです。
ご飯を食べたらちょっと落ち着いて
少しづつ肩に痛みが戻って来ました。

家に戻ると親戚の人が集まっていました。
と言っても義姉の父と義姉のお姉さんでした。
グランドゴルフをしていた村の人が
家に戻っては私が事故にあったことを
近所の人達に伝えたようです。

交通事故から入院と話は大きくなり
心配して見舞いに来てくれたようですが、
私達が戻ったらぽかんとしていました。
と言うのは私が戻っていることは知らないので、
『私と姪』を勘違いして見舞いに来たようです。

『XX家の娘さん』と言われたので
姪のMちゃんだと思ったらしいのです。
ケガをしたのは昔の娘さんですが、
それでも父からすれば『XX家の娘さん』です。

私達が帰って安心したようですが、
父はバイクの修理の方が気になったかも。
これがないと何処にも行けませんからね。
修理代は父に払いませんでしたが、
もしかしたら私の治療代よりも
高くついたかもしれませんね。

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    田舎の風景『下鶴目鑑橋』


田舎の思いで『下鶴眼鏡橋』
『下鶴目鑑橋』は長さ71m(本体部分24.9m)、
幅5.3m、アーチ径間23.55mで
霊台橋、通潤橋につぐ
日本で3番目に大きい単連アーチ橋です。

1882年下鶴橋建設組合が結成され、
種山石工・弥熊を棟梁とし、
その父橋本勘五郎の指導によって
建設が進められました。
彼は日本橋を建設しました。

当時、弥熊は若干23才ですが、
険しい地形にアーチ径間23.55mという
大石橋を架けるという、
一生一代の大仕事を担いました。

『八勢目鑑橋』がある矢形川の
上流に架けられています。
機会があれば一緒に尋ねて下さい。


田舎の思いで その15『はじめての救急車』

家から怒鳴り声で父を呼びます。
ゴルフ場まで上がって行く気もしませんでした。
と言っても事故っていますから歩けませんが、、。
ゴルフ場には村中の人が集まっていますからね。
下から呼ぶと父が降りて来たので、
バイクで事故ったから取りに行くように頼み、
救急車が来たら乗って行くから
姉に迎えに来てもらうように伝えました。

父が一緒に行こうかと言いましたが、
車の運転も出来ない父が一緒に来ても、
救急病院では役に立ちませんよね。
自分ひとりで行った方が気が楽なので、
救急車が来たら宜しくと伝えておきました。

実家は市内から20km程離れているので、
救急車が来るのに45分程かかりました。
サイレンが聞こえ始めると
『私が乗る救急車だ』と興奮しました。
だってそれまで一度も乗ったことがありません。

海外では救急車は有料です。
専門の教育を受けた人だけが、働くことができます。
救急車の中では緊急な処置をすることができ、
そのための設備や器具も整っています。

日本の救急車は無料のようですが、
何も手当はしてくれませんでした。
血が出ていればガーゼとか当てるのでしょうが、
自分で車にのりベッドに寝て
病院に到着するまで暇なので、
係員の人と世間話をしていました。

病院に到着するとレントゲン撮影後、
先生から脱臼していると言われました。
肩を元の位置に戻してくれましたが、
言われたほど痛くもなく終わりました。

肩の骨に少しだけヒビが入り、
打撲のときの内出血で青くなりましたが、
痛みは殆どなかったですね。
蒔かれた包帯だけが痛々しそでした。

と言うと簡単な事故でおわったようですが、
さすがにその後のリハビリには
長く時間がかかりました。

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   田舎の風景『吉無田の茶畑』


田舎の思いで
吉無田高原でお茶の生産が
本格的に始まったのは70年代以降です。
私が遠足で行った頃はまだお茶の木が小さく
生産する程ではなかったと思います。

私の姉の嫁ぎ先でお茶をやっており、
実家に戻る度に遊びに行きました。
暇なのでここまで歩くのが気持ちよく
犬を連れて行くと、犬の方がまいっていました。

そんな姉夫婦は跡継がいないので、
お茶畑は義弟夫婦に譲り
ゆっくりと退職を楽しむ予定でした。

兄は魚釣り、姉はビーチバレーボールと
それぞれに趣味にいそしんでいますが、
三人いる娘は今でもすねを齧っています。
そんな私も実家に戻ると
母変わりにすねを齧っているかな?

田舎の思いで その14『裏山のグランドゴルフ場』

父はその頃何をしていたかと言うと
家の裏山でグランドゴルフをしていました。
グランドゴルフをやったことがないのですが、
ゲートボールみたいなものでしょうか?
ボールをポロのようにして打って行き、
それぞれのゲートを通して行きます。

田舎には60歳を過ぎた人が多かったですね。
健康づくりと言うことでゲートボール、
もう少し若い人達は女性を中心に
ビーチバレーボールが盛んでした。

裏には竹林がありましたが、
工事現場で土がいる時に裏山を崩して
我が家から土を運んだようです。
お陰で山が平になりブルトーザーを使って
グランドゴルフ場を作ったそうです。

農作業以外に運動することのなかった父は、
村の人達と一緒に楽しんでいました。
地区や町内、県内の対抗会もあり、
かなり楽しんでいたようです。

村の人達も午後になるとやってきます。
自分のクラブを持って楽しんでいますが、
もんぺに麦わら帽子かてのぐいと、
田舎の服装らしくて楽しかったです。
ちょっと若い人になるとやっぱりジーパンですね。

若者が皆都会に就職して行くので、
何処の家にも若者がいませんでした。
息子がいても就職して戻って来なかったりと
『跡継ぎ問題』はどの家でも悩みだったようです。
家に息子がいても嫁の来てない所も多く
40歳を過ぎた独身男性も多かったですね。

日本に帰国する度におばさん達から
息子(私のいとこ)と結婚してくれと言われましたが、
いまさら日本に戻って暮らす気にもなれません。
いつか茶飲み友達にはなれるかもしれませんが、
『小さい時から知り過ぎたいとこ』と
とってつけて結婚する気にはなれません。

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    田舎の風景『吉無田高原』

田舎の思いで『吉無田高原』
吉無田水源から鬱蒼として
国有林の中を歩いて行くと
吉無田高原が広がっていました。

学校の遠足と言えば『吉無田高原』
これが春の遠足の恒例でした。
大きなおにぎりを持って
ワラビ狩りをするのが楽しみでした。

草スキー場としても有名ですが、
段ボールを持って行って滑った頃と違って
今では立派な貸しスキーがあるそうです。
キャンプ場やBBQ設備も揃い
貸別荘まで出来たようです。

空港の方から新しい道路も出来て
市内からの足の便がよくなりました。
バイクを飛ばす人が増えましたが、
実家からは2時間足らずで歩いて行けます。

田舎の思いで その13『バイクで事故った』

バイクごと空中に飛び跳ねた私が気づいた時には
用水路の横でバイクと共に倒れていました。
自分で起きて何とか歩くことができました。
家までわずか20m程なので、
バイクはそのままにおいて歩いて行きました。

家には母しかおりませんでした。
私が泥だらけになって帰って来ても
まさか事故にあったとは思わなかったようです。

左腕が肩から痛むので脱臼をしたようですが、
幸いにも腕や足の骨は折れておらず、
ヘルメットもしないで乗っていたわりには
頭を打ったような気もしませんでした。
意識はちゃんとあったのですが、
これだけは後から後遺症が出るときもありますからね。

落ちた所が用水路の横で良かったです。
もし用水路に落ちていたら水を飲んで
そのまま水死していたかもしれません。
用水路の壁は石で出来ていますが、
もしそこに体か頭を打ち付けいたら、
もっと大きな事故になっていたでしょう。

意識があったので、母に電話を持って来てもらい、
自分で110番で救急車を呼びました。
市内の外科に行って救急処置をしてもらわないと、
このままでは腕を使うこともできません。
待っている間何をしたらよいか尋ねましたが、
あまり腕を動かさないようにと言われただけです。

日本の保険がないので現金を用意します。
海外旅行にはいつも入っていますが、
日本に来るときだけは入ったことがありません。
まさか事故になるとも思っていませんからね。

次に携帯番号を聞いて義姉に電話します。
そして事情を伝えて迎えに来てもらうようにしました。
と言っても現場から直接来れないので、
一度家に戻ってから来ると言っていました。

大きな外科病院はいくつかありますが、
何処に運ばれるかは救急車が来ないとわかりません。
運を天に任せて待つだけですね。
救急車のサイレンを楽しみにしたのは初めてです。

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    田舎の風景『吉無田水源』


田舎の思いで『吉無田水源』
阿蘇の外輪山の裾野にある水源で
名水百選にも選ばれています。
この水源から上水道が引かれていますが
規定で殺菌しなければなりません。
それが嫌な人はわざわざ水を汲みに来ます。

今でこそ『水の都』と言われる熊本も
その昔は水不足に悩まれれていました。
私が住んでいた地区には水源がなく、
耕作することさえできませんでした。

下級藩士『光永直継』は、
地域住民の困窮を見かねて、
藩に分収林方式の森林経営を提案しました。
やがて提案が認められ、1815年より藩有林として
スギ、ヒノキの植林事業を始まったそうです。

何百万と言う植樹がされたそうですが、
私が小さい頃は鬱蒼と茂った国有林があり、
そこを取って高原に行くのも怖かったです。
木が成長すると水が流れるようになり、
灌漑用水路(井手)の建設が可能になり、
地域で水田耕作が可能になりました。


田舎の思いで その11『ふたりの姪っ子』

甥にはふたりの姉がいます。
私が高校生の頃一緒に住んでいたので、
ふたりとも愛着がありますね。
しかしふたりの性格は全く異なります。

一番目の姪Jちゃんは5月生まれで兄そっくり
小さいときから細くて小柄でした。
しかし私がいつも連れて歩いていたので、
臆病者ですが何でもトライします。
私に性格がそっくりと義姉が言います。

二番目の姪Mちゃんは1月生まれ、
義姉に似て生まれ時からぽっちゃりです。
20ヶ月の違いですが、歩く頃には
Jちゃんよりも体重が重かったですね。

学校はひとつ違いになりました。
甥とはひとつ違いのために、
小学校から中学校まで三人まとめて行き
生徒数の少ない田舎の学校では、
三人も同時に通っているのは我が家のみでした。

お陰で兄がPTA会長を引き受けることになり、
飲める言い訳が増えたと喜んでいたようです。
多分人から頼まれなくても引き受けていたかも
時間が自由になる(とっても無理なときもありますが)
自営業は田舎でも少なくなっていました。
農家と言いながら何処かに勤める時代でした。

Jちゃんは卒業すると家から通い
町内でいろんな仕事したようです。
結婚して相手の親と同居していますが、
子育てながら栄養管理師の資格をとり、
幼稚園で栄養士として働いています。
園児から『先生』と呼ばれています。
う〜ん偉くなったものです。

Mちゃんは義姉に似て度胸が据わっています。
義姉のようにダンプやブルトーザーの資格ととり、
兄の仕事を手伝うようになりました。
現場でを運転していると、警官から
『免許を見せて下さい』と質問にあうそですが、、。
まだ女性が重機械を運転するのは
田舎では珍ずらしかったのかもしれません。

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     田舎の風景『嘉永井手』


田舎の思いで『嘉永井手』
『八勢の目鑑橋』を作った林田能寛と同じ
木倉に住んでいた惣庄屋達は
吉無田の水源を利用して
水田用の用水路を作りました。
熊本では用水路を『井手』と呼びます。

江戸時代の初めごろ、
木倉手永惣庄屋木倉太郎兵衛が通した
全長20kmの『元禄井手』や
嘉永の末年に惣庄屋光永平蔵が開いた
全長28kmに及ぶ『嘉永井手』があります。

私の田舎では水田用の水だけなく、
生活用水としても利用していました。
私は小さい頃ここで泳いでいました。

母はこの用水路で洗濯をして、
この水のお陰で池があり鯉を養ました。
また家の中まで水を引いてあり、
洗ったり、風呂に沸かしたりしました。

さすがに飲み水は近くにあるわき水を
バケツで汲んで来ていましたが、
この用水路のお陰で水には困りませんでした。



田舎の思いで その10『酒好きの兄夫婦』

兄は私が高校1年の時に結婚しました。
一時は家に帰らないと言って
いろんな現場で働いていましたが、
いろいろあって家に戻って来ました。

何処で知り合ったのか知りませんが、
実姉の同級生と結婚しました。
義姉の妹さんは私の同級生なので、
小さい時から何処かで知っていました。

兄は痩せ形で神経質なタイプです。
いつも大きな夢を話していますが、
『言うばっかり』と陰で言われています。

義姉はぽっちゃり型でおっとりしています。
と言うか何事にも動じないタイプですね、
兄の講釈が始まると『耳を塞いで聞いて』
何事もなかったようにしています。

ふたりの共通点はお酒好き
甥っ子夫婦も酒好きなので、
実家に戻ると酒三昧の生活です。

兄は酔うまで飲むタイプで、
家で飲むより外で飲むのが好きですね。
何かしら用事を見つけては飲んでいます。
何もない時は友人の家で飲んでいます。
『人の迷惑を考えなさい』と言われながらも、
耳に入らず何処かで毎日飲んでいます。

車の運転があるので飲めないはずですが、
代行運転会社の超得意先でした。
子供が大きくなると早速を免許を取らせて
ふたりの姪に迎えに来てもらっていました。

誰もいないと実姉に頼んでいたようです。
姉は家から2kmぐらいの所に住んでいますが、
子育てが終わってふたりで暮らしています。
携帯が普及すると皆が持っていたので、
ビーチバレーなどでちょくちょく外出している姉を
電話で捕まえては頼んでいたそうです。

誰もあてがないときは義姉が迎えに行きます。
いつも小言を言われているので、
このときだけは小さくなって頼むようです。
それでも次の日はまた出かけて行きます。
この酒好きだけは父からの遺伝のようです。

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    田舎の風景 八勢の眼鑑橋


田舎の思いで『八勢眼鑑橋』
熊本にはたくさんの石橋があります。
矢部にある『通潤橋』が有名ですが、
この眼鑑橋は『通潤橋』を建設した
種山石工・甚平・宇助が棟梁をしました。

『軍見坂』の入り口にある木倉に住んでいた
『林田能寛』は酒造業を営み財をなしますが、
貧しかった肥後藩には橋を建設する金もなく、
彼が私財を投げ打って橋を建設しました。

この橋は熊本と宮崎を結んだ
『日向往還』の一部に当たります。
目鑑橋の近くには石畳も残っています。

当時はこの橋を見に来る観光客はいませでした。
住民にとっては生活の一部でした、
インターネットの普及で
『日向往還』を歩く人が増えたお陰で
この橋と石畳の価値が見直されています。



田舎の思いで その9『田舎の跡取り』

両親が健在だった頃は甥は独身でした。
土木関係の勉強をするために
毎日市内の高校まで通っていましたが、
下宿はせずに自転車通学でした。

市内まで15km以上はあったと思います。
多分通学に最低1時間はかかったでしょう。
実家のある地域は台地にあります。
阿蘇の麓から続く地形です。

市内は平野なので大きな坂があります。
行きは良いですが、帰りは上り坂。
道路は狭く曲がりくねっていて
車一台が通れるぐらいしかありません。
バイパスが出来てからは通行量も減りましたが
自転車で走行するのは危険です。

バイク通学が禁止されていたので
三年間も自転車通学をしたようですが、
運動しなくても逞しくなりましたね。
骨しかない痩せぎすの兄と違って
筋肉もあってかっこ良かったです。

卒業した後しばらく家から出ていました。
将来は兄の後を継ぐはずでしたが、
社会勉強のために就職して働いていました。
いろんな事業所で働いていれば、
使われる身の辛さも分かりますからね。
そのせいか兄と違ってとても謙虚です。

兄もいろんな現場で働いて来ましたが、
結局はひとり息子で甘やかされていたのでしょう。
ふたりの姉にもふたりの妹にも
『おれは跡取りだ』という態度を見せます。

お陰でフラフラと海外を放浪できますが、
家を出て暮らすことの大変さは
『いつかは戻れる家がある』人には分かり難いです。
親と言う屋根はいつまでもありませんが、
最初からそれを期待していないので、
ひとり生き抜くことが強いられました。

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     田舎の風景『鼎春園』


田舎の思いで
宮部鼎蔵と言えば熊本藩士で
尊皇攘夷派の活動家でした。
池田屋で会合中に新撰組に襲撃され
奮戦しましたが自刃しました。

新撰組は大河ドラマでも取り上げれますが、
宮部鼎蔵のことを知る人は少ないと思います。
日本を動かした方が地元出身なのは嬉しかったですが、
あまり学校の授業でも取り上げられませんでした。

『鼎春園』は宮部鼎蔵と弟の宮部春蔵を
記念して作られた公園です。
彼らの活動のお陰で『日本の夜明け』が来たのです。

と言ってもこの公園でかくれんぼしたり、
鬼ごっこしたりとあまり尊敬していませんね。
学校帰りの良い遊び場になっていました。
あの頃はインターネットもなく
彼の存在もそれほど知られていませんでした。

田舎の思いで その8『田舎の朝は早い』

夕ご飯が終わると父は部屋に籠ります。
お酒も飲みますが、家族と飲むことはなく
いつも手酌師で好きな物を飲みます。
皆働いているので夕食が遅いせいもありますが、
お風呂に入ったら好きな時に食べて、
好きな時に飲のが気兼ねしないようです。

冷蔵庫には弁当のおかずや
酒のツマミになるように何でも入っています。
家族が『これ古くなっているかも』と思って
ちょっと気兼ねしているようなものでも、
平気で食べてケロッてしています。

病気で入院したことなんてありません。
一度ぐらいお医者さんが往診に来ましたが、
父が病気で寝たことさえ記憶にありません。
『病院に入院するときは死ぬときだけ』と
いつも公言していた父です。

自分の好きな番組を見てさっさと寝ます。
夜9時には寝て、朝5時に起きる
これが父の長い間の習慣でした。
甥にお嫁さんが来てからは
遠慮してから少し遅く起きるようになりました。

さすがに年を老いたこともありますが、
朝の草刈りのしないのに
おじいちゃんが朝早くから起きたら迷惑ですよ。
『嫁さん早く起きれ』と言っているみたいで。
もう父の時代ではなく孫の時代になったのです。
もちろん甥のお嫁さんだけなく
義姉も起きますが、みんな早起きです。

帰国すると座敷(客間)に寝ますが、
この部屋で寝るのは好きではありません。
座敷には神棚と仏壇が同居しています。
家族全員(子供を除いて)がお参りにきます。
朝早くからご飯を上げたりお参りするので、
うるさくてゆっくりと寝れません。
田舎の朝が早いのは当たり前なのでしょうね。

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  田舎の風景『七滝』


田舎の思いで『七滝』
昭和30年代町村合併するまでは
私が育った地区は『七滝村』にありました。
七段の滝になっている所から『七滝』
と呼ばれていて地名になったようです。

中学生の時友人と一緒にここで泳ぎ
半分溺れかかったことがあります。
滝壺はプールの何倍も広く深さもわかりません。
ヘビが横で泳いでいましたね。

現在は一年に一度しか放流されませんが、
普段は何処を流れているのでしょうか?
田舎も時代とともに変化していますね。
今度夏に行ったら泳いでみるかな。

田舎の思いで その7『テレビを取り合った頃』

小さい時はテレビも一台しかなかったので、
番組に取り合いで喧嘩していましたね。
まだじいちゃんが一緒に住んでいた頃は
相撲が始まるとじいちゃんが見ます。

目が悪かったじいちゃんにとっては
テレビもラジオも変わりませんでしたが、
テレビで見るのを楽しみにしていました。
年に6回もある相撲のシーズンですが、
裸の取り合いを子供が好きですか?
アニメを見る方が楽しかったです。

父も似ていてプロレスが好きでした。
野球番組は見なかったので
唯一のスポーツ番組でした。
これも子供にはあまり興味ありません。
大鵬と力道山が出場する瞬間だけ
楽しみにしていたような気がします。

兄は野球ファンでしたね。
男の子なら野球好きかもしれませんが、
スポーツ苦手な私には興味ありません。
せいぜい楽しみにしていたのは
マラソン大会くらいでした。
何故かって長距離が得意だったからです。

今ではそれぞれの部屋にテレビがあるので、
奪いあいすることもありません。
民放が1局しかなかった小さい頃と違って
テレビ局が多過ぎて迷ってしまいそうです。

日本を離れていると帰国した時に、
テレビを見て現代の事情を知ります。
しかし年々テレビを見るのが嫌になってきました。
番組の質が低下しているような気がします。

知らない歌手の歌を聞いても
知らない俳優のドラマを見ても
全く感動しなくなったのもあります。
漫才を聞いても笑うことができません。
自分が『浦島太郎』になった気持ちです。


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    田舎の景色『五里木の碑』


田舎の思いで『五里木の碑』
熊本市内から『日向往還』を歩いて
五里にあたるのがこの近くだそうで、
以前は木が植えてあったようです。
『軍見坂』を登り切ると
『下五里木』と言うバス停がありました。

現在は『五里木の碑』があるそうですが、
これも私が日本を離れてから建立されました。
歴史を言い伝えるための努力ですね。

近くには『凱旋門』がありましたが、
これは日露戦争に勝った時に
建立されたそうです。

さらに古閑の迫には小さいですが、
『長迫橋』という石橋があります。
熊本はこういった石橋造りで有名です。
この橋は農道になっているので、
その橋の歴史的価値を重んじる
住民は殆どいないでしょうね。



田舎の思いで その6『着物好きだった母』

母はあまり器用ではありませんでした。
料理はいつも作ってくれましたが、
ご飯とみそ汁とたくさんの漬け物に、
おかずが一品ぐらいしかありません。
漬け物がおかずだったのかもしれませんね。

大正生まれの人ですから料理のレパトリーは
私に劣らないぐらいに少ないです。
肉もなま魚も食べないし触れないので、
料理のレパトリーが少ないのは
仕方ないのかもしれませんが、、。

私は小学校に上がる頃まで
着物ばかり来て過ごしていました。
寝間着だけでなく昼間も着物です。
おしゃれな着物ではなく
腰に紐がついた子供用の着物、
売っていないので母の手作りでした。

七五三の時に洋服を買ってくれましたが、
着るのが嫌で泣いていたそうです。
赤い上下の洋服ですが、嫌でしたね。
今でもそのときの服を覚えているのですから、
よっぽど嫌だったのかもしれません。

母は農作業の時は洋服を着ていましたが、
授業参観日などよそ行きの時は
殆ど着物姿だったような気がします。
それほど優雅な家でもないはずなのに
着物の方が好きだったのかもしれません。

しかし着物を着ているのは私の母ぐらい、
洋服を来ている人の方がモダンに見えました。
今ならその逆で着物の方が
優雅でおしゃれに見えるかもしれません。

私自身着物は苦手ですね。
成人式と姉の結婚式は着物でしたが、
和食で働いたときに着物だったせいか
今では二度と着たいとも思いません。
窮屈なのには耐えられませんね。

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     田舎の風景『軍見坂』


田舎の思いで『軍見坂』
町に行くたびにバスで通ったのが『軍見坂』
曲がりくねりの多い細い道ですが、
春になると桜の花の名所でもあります。

戦国時代『甲斐宗運』が『御船房行』を
敗北させた激戦地でした。
西南戦争では敗走する薩摩軍が
難渋したところでもあります。

熊本から宮崎に向う『日向往還』
旧街道の面影はありませんが、
軍見坂のある県道221号線が
その面影を伝えています。

田舎の思いで その5『味噌漬けは母の味』

母は小さくて痩せていました。
病気がちだった母はいつも入院していました。
子供を育てながら、家事をして農作業をして、
そんな疲れから病気していたのかもしれません。
病院にいるときはすべてから開放されます。

しかし母にべったりだった私の面倒は
母以外に見ることができなかったようです。
母がいないといつもべそをかいたそうで、
母の付き添いで病院に寝泊まりしていました。
お医者さんのひとり娘で、同い年の知恵ちゃんは
学校に行く前から仲良しでした。

母は味噌や納豆、梅干しも家で作ります。
以前は醤油や豆腐も作っていたそうですが、
それは手間がかかるので買っていました。

母は漬け物が得意でしたよ。
沢庵、白菜漬けに高菜漬け。
青い高菜より古くなった方が美味しくて、
これを油炒めにすると最高ですね。

母の漬け物で一番好きなのが『味噌漬け
人参、なす、瓜などは当たり前ですが、
昆布と豆腐はもう最高ですよ。
昆布を茹でて豆腐に蒔いてつけます。
今では珍味として知られているそうです。
ついでにショウガの味噌漬けも美味しいです。

『しょんしょん』と『こる豆』も作ります。
これは熊本県人でないと知らないかもしれません。
『しょんしょん』はしょうゆの実のことで、
『こる豆』は干した納豆です。
これがあるとお茶漬けにも最高ですね。

いつも帰国が決まると味噌漬けの準備をして
楽しみにまっていてくれる母でした。
出来上がるのに2ヶ月ぐらいかかるので、
突然帰っても味噌漬けは食べられません。
『しょんしょん』も『こる豆』も買えますが、
味噌漬けだけは我が家のが最高でした。

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熊本の味『しょんしょん』 by 丸江食品


田舎の思いで『しょんしょん』
私はしょんしょんでお茶漬けにするのが好きでした。
何にもおかずがないときは、
これをご飯の上に乗せて食べていました。
何杯も何杯も食べれましたね。

のびると一緒にあわせても美味しいし、
いろんな野菜とあわせてもうまいですよ。
インターネットで作り方も教えてくれます。
一度試してみて下さい。
『しょんしょん』と『こる豆』は
まさに熊本の味でです。

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