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地球ワーキングトラベラー見聞記

カナダ、アメリカ、オーストラリアの永住権を持ち、ヨーロッパでの滞在経験もあります。世界100カ国以上回った、私の見聞記を楽しんで下さい。

渡り鳥のような、旅ガラスのような、

どうして私が渡り鳥になったか?
旅ガラスのような暮らしをしているのか?
昨日までのブログで紹介しました。
このブログを始めた翌年2010年に
初めてアラスカで仕事をしました。

アラスカの暮らしは気に入りましたが、
その翌年はシドニーで過ごしました。
アラスカとシドニー間の距離は遠く、
そう簡単には戻ることはできませんでした。

航空券もかなりの費用がかかります。
アラスカの4か月分の給料では、
税金を引かれ、諸経費を払ってしまうと、
手元には殆ど残りませんでした。
往復の航空券代と他の旅行費用でで、
貰った給料は飛んでしまいました。

「アラスカに旅行に来た」と思えば、
何とか安い給料でも救われました。
お金では買えない体験もできたし、
ひとシーズン過ごせたというのは
観光客ではできないことです。

どんなにアラスカが気に入っても、
厳冬の時期、暮らす気持ちはありません。
冬の間だけ他の街で暮らすこともできますが、
やっぱりシドニーが好きなのでしょうね。

この街には友人もたくさんいるし、
仕事も何とかそれなりにありました。
ここには現実の世界しか待っていませんが、
一番過ごしやすい街といえますね。

マンネリ化でも半分ここで暮らしながら
アメリカに働きに行ったり、旅行したり、
私にはぴったりなのかもしれません。
若いときのように毎年移動するのは辛いけど、
数年おきならやっぱり移動したいですね。

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    デナリ国立公園の野生動物

デナリで暮らしてみた

住むのも働くのも初めてではないけれど、
今まで行ったことのない場所に暮したい。
採用されれば職種はあまり厭いませんが、
スタッフアコモがある職場を探しました。

夏のアラスカは観光客が訪れます。
短いシーズンにたくさんの人が訪れます。
ところが人口が少ないので採用も多く、
アメリカ中からスタッフが集まってきます。

デナリのホテルはスタッフアコモだけでなく、
台所がないので食事もついていました。
費用は給料から天引きされますが、
一度は行ってみたいと思っていたので、
採用されたときは本当に嬉しかったです。

ドイツのホテルに採用されたときと同じような
感動をまた味わうことができました。
どんな場所か想像もつきませんが、
夢だけを追ってアラスカに行きました。

一応インターネットで調べていたけど、
バンフをはるかにしのぐ僻地でした。
アンカレッジから400kmほど離れ、
夏の間だけオープンするホテルのみでした。

以前暮らしことのある苗場のような、
レイク―ルイーズに似たリゾートでした。
でもそこには長年憧れて続けた大自然が
何百という高山植物と野生動物。
まさにシドニーでもラスベガスでも味わえない
環境が私を待っていてくれました。

バンフの頃と違い休みがちゃんとあるので、
休みの日はハイキングばかりしていました。
デナリ国立公園はすぐそこにあり、
無料でシャトルバスを利用できました。

こうなると僻地の暮らしも嬉しいです。
社員食堂で三食食べることもできますが、
気が向けばレストランに行くこともできました。
働いているホテル以外に5つのホテルと
レストランも10件以上ありました。

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    アラスカデナリ国立公園






シドニーのカジノで働く

シドニーに戻ってくると
ラスベガスのカジノの経験を活かして、
シドニーで働くことになりました。
残念ながらディーラーではないですが、
エレクトリックゲームアテンダントでした。

これも私にとっては良い経験でした。
しかしラスベガスと違って、
シフトがその週によってことなります。
あるときは早朝だったり、夜勤だったり、
これは結構体に答えましたね。

多分20代~30代なら体も持ちますが、
40代になると体がついて行けません。
あのスロットマシーンの周りで働くのも
タバコを吸っている人がいる中で働きのも
決して良い環境とは言えませんよね。

わざわざ自分の命を短くする必要はありません。
バンフのあの雄大な自然の中で働いた日々が
懐かしく毎日思い出させるようになりました。

だんだんストレスが貯まるようになると、
お客さんとの揉め事も出てきます。
ある日上司から呼ばれて勧告があり、
その後カジノを自主退職することになりました。

辞めると意外とスッキリしたものです。
カジノで働いているときもバイトをしていたので、
その仕事をそのまま続けることにしました。
その仕事はカフェのバリスタでした。
コーヒー好きの私にはぴったりの仕事でした。

カジノはフルタイムだったので休めませんでした。
一年働いたら有給でも取るつもりでいましたが、
一日も使わないまま辞めたので給料清算、
私のちょっとしたボーナスになりました。

こうなると旅行の虫が動き始めます。
旅行だけで移動すると費用もかさみますが、
仕事をするなら一石二鳥ですよね。
アメリカの仕事を探し始めました。

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ラスベガスストリップ by lasvegas.net




不景気になったら仕方がないよ

ラスベガス三年目はひどかったですね。
サブプライム住宅ローン危機で
「売家」の看板があちらこちらに出ていました。
「売家」ならまだ良いのですが、
殆どの家が「Foreclosure」になっていました。

持ち主が住宅ローンを払えなくなり、
銀行が抵当権として抑えたものを、
裁判所が売りに出したものです。
家の売値はピークの1/3以下になりました。

お金がある人はどんどん家を買ったようですが、
それでも借り手がいないと元は取れません。
景気が悪くなれば、他の街に移動するので、
結局空室もどんどん目立ってきました。

わずか数年前のラスベガスは、
億単位のマンションが売られていました。
皆値上がりを目当てにした投資です。
でも値下がり始めると計画倒れ、
結局空き地のまま残っていました。

景気が悪いと失業保険が降りやすいです。
2年間働いたので少しですが支払われました。
学校の授業料も払ってくれるというので、
ディーラーの養成学校に戻って、
さらに6種類のゲームを習いました。

毎日通った学校は楽しかったですね。
年齢を越えて友達がたくさん出来ました。
同じ目的を持っているので話も弾みました。

ベテランディーラーが解雇されているので、
新規採用は殆どありませんでしたが、
私はそれほど気になりませんでした。
「シドニーに戻れば」という保険もあったし、
夢を追いかけているのが嬉しかったです。

一応新規のカジノがオープンするというので、
オーディション(面接)を受けて合格になりました。
しかしカジノの担当者が辞めたりして、
最後はうやむやになってしまいました。

これはシドニーに戻れという暗示ですね。
私には戻れる場所がありました。
そこには何とか仕事もありました。
焦ることなく風の吹くまま流れてみました。

NYNY[1]
  ニューヨークニューヨーク by wiki

カジノのディーラーを目指してみたけど

初めて暮らすラスベガス
訪問するのも20年ぶりでした。
友達もいないし、仕事もありません。
昔のように一から始めました。

少しだけ違っていたのは、
初めて来た時より英語がもっと話せること。
国の事情を良く知っていること。
インターネットのお陰で、
ホテル、バスや航空券などの予約が
簡単にできる時代になっていました。

初めてカナダに住んで頃を思い出しました。
まず住む所を見つけなければなりません。
それが決まると今度は仕事探しです。
どちらも決まると、落ち着きました。

もちろん最初にやった仕事はウェイトレス。
まだ景気が良く、タイミングもよかったので、
大きなカジノですぐに仕事が見つかりました。

一年目はその街のことを知ること。
アメリカに完全に移住するためには、
それなりの覚悟も要りますからね。
もう若くないので、一度移住してしたら、
そう簡単には後に戻れないのです。

二年目は本格的な仕事探しでした。
ラスベガスはカジノの街ですから、
ディーラーになるのが夢でした。
養成学校に行き資格をとって、
3流のカジノに就職することもできました。

ところがタイミングが一番悪い時期でした。
ハウジングブームで景気の良かったアメリカに
不景気の兆しが出始めていました。
景気が悪くなるとカジノの客も減って、
ディーラーを解雇するところも出始めました。

私がいたカジノは前年にオーナーが変わり、
壊して新しいカジノを建てる計画がありました。
パートタイムで仕事をしていれば、
新しいカジノでの保障もあったのですが、
それまでくい繋げる余裕はありませんでした。

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    ラスベガスの看板 by wiki



ガイドの仕事がなくなると、、、

オーストラリアに戻ってから10年間は、
ガイドの仕事がとても忙しかったです。
すでにバブルは破壊し始めていましたが、
オーストラリアが旅行ブームになり、
しばらくは景気の良い時代が続きました。

ガイドをしてお金を貯めては海外旅行。
たまに永住権をキープするために、
アメリカやカナダに戻って滞在しました。

一応シドニーが私の拠点になりましたが、
「今何処にいるの?」と家族からも言われるほど、
結局はいつも動き回っていました。
新し国を一か国でも増やすこと。
100か国旅行するのが目的でした。

日本の不景気がだんだん深刻になると、
海外旅行は「短い、近い、安い」が主流になり、
オーストラリアに来る人も減りましたね。

ピーク時にはこのシドニーだけでも
500人近い日本語ガイドがいたというのに、
いつの間にか50人ぐらいになってしまいました。
そして私がいた会社もガイド部門をクローズ、
皆それぞれに散らばって行きました。

私はまだガイドをしながらウェイトレスもして、
旅行するだけの余裕もありましたが、
そろそろ次の目的を探す時、
アメリカへの移住を考えてみました。

途中にもハワイやニューヨークで暮らしましたが、
戻ればまだガイドの仕事が待っていました。
でも私の好きな仕事ができないのなら、
他の国でガイドするために移住するか?
永住権はあるのですから、移住は簡単でした。

そしてアメリカに移住することにしました。
しかしオーストラリアよりも時給も安く、
医療保険など全くない国ですから、
ちゃんとした仕事が見つかるまでは無理ですね。

ターゲットに選んだのはラスベガス。
どんな街か、仕事はあるのか?
探すためにひと夏行くことにしました。

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   セントラルコーストの夕暮れ



永住権を保持するのも大変です。

南米への航空券も予約して
あと1っか月で出発という時に、
母からの手紙が到着しました。
大きな封筒の手紙の中には別の封筒があり、
差出人はロサンゼルスの弁護士でした。

中を開けてみると、、、
グリーンカード当選の通知でした。
3年以上待ったアメリカの永住権が、
オーストラリアに移民してから降りたのです。
それから一か月は面接のための書類集め、
そしてすべての必要な手続きを
旅行前に揃えなければなりません。

南米の旅行が終わりカナダに行きましたが、
仕事をしている時間はありませんでした。
日本行の航空券を予約したら、
後のはのんびりと旅行することにしました。

日本のアメリカ大使館での面接が終わると、
そのままアメリカにとんぼ返りしました。
アメリカに入国しないと永住権はおりません。
こうなると旅行というより追い立てられています。
しかし私の夢だった「グリーンカード
こうして手に入れることができました。

私が一緒に住んでいた友人も、
ガイドをしていた時の友人たちも、
かなりの率でグリーンカードを取りました。

最初の応募で2回にわたり
合計10万人が当選したそうです。
再抽選でさらに5万人が当選したそうです。
私達はどうやらそこで選ばれたようです。

グリーンカードは郵送されるので、
友達の家に送ってもらうことになりました。
そして私はそのままシドニーに戻り、
オーストラリア暮らしを楽しみました。

こうやってカナダの永住権をとってから
10年のうちに3つの永住権を取りましたが、
これをキープするのも大変なんですよ。
結局私の旅は一生続くことになりました。

RNP[1]
    ロイヤルナショナルパーク



シドニーに定住したはずですが、、、

日本に来て一年が過ぎようとしていました。
ロサンゼルス行の航空券があるので、
しばらく北米に帰ってみることにしました。
バンフの会社には来ることを伝えましたが、
結局何処でも仕事をせずに遊んでいました。

日本で添乗員をしているので、
今回のカナダ訪問は旅行でも良いのです。
この旅行中に友人に電話を入れると、
何とオーストラリアの永住権が認可されました。

面接があるので2か月でとんぼ返り。
大使館で最後の面接を受けると、
正式に永住権が降りました。
これでカナダの冬を過ごせる国ができました。
それもカナダの冬に夏の国でした。

日本の夏は添乗員が多忙な時期。
稼げるだけ稼ぐつもりでした。
シドニーに戻ってもしばらくは遊べません。
落ち着くまでは一生懸命働くつもりでした。
そのためにもお金はあった方が良いですね。

最初は現地に仕事を探しました。
ホテルの仕事もすぐに見つかりましたが、
ガイドの声があちらこちらかかかり、
結局ガイドになることにしました。
今までのガイド会社ではなく大手の会社で、
専属ガイドとして働くことにしました。

それまでも充分働いてきたつもりですが、
シドニーでガイドを始めてから数年は、
人生の中で一番働いた時期かもしれません。
休みをくれと言っても休みが貰えない程、
仕事はいくらでも好きなだけありました。

ヨーロッパの夏より暖かいシドニーの冬。
こんなに暮らしやすい街はありません。
でもじっとしているとムズムズします。
移民してから半年、毎日働き続けたので、
自分へのご褒美で三か月の休暇を取りました。

初めての南米旅行を計画しました。
もちろんひとりで好きなところに行きます。
主な観光地だけを旅行する、
一か月だけの短い旅行でした。

そのあと今度はカナダに戻って、
しばらく滞在するつもりでいました。
カナダの永住権をキープするには、
数か月滞在しなければなりませんでした。
もし仕事が見つかれば働くかもしれません。

Blue-Mountains-private-tour-10[1]
   ブルーマウンテン by flicker




オーストラリアの永住権を申請して

日本では配膳会の仕事をしながら、
添乗員の派遣会社を探しました。
私は根っから旅行が好きになってしまい。
たとえ日本にいても海外旅行したかったです。

添乗員の厳しさも一度は味わいましたが、
ガイドの経験もさらに積んできたので、
お客様の対応もだいぶ慣れてきました。

日本に埋まって明日のことを考えるより、
先週はパリ、来週はニューヨークと
世界の街角のことを考える方が夢があります。
憧れのフライトアテンダントには慣れなかったけど、
同じように世界中を渡り歩くことができます。

今度の会社は前の会社よりも楽しかったです。
一度とった資格は切れることはありません。
海外渡航がうなぎのぼりで増えていた頃、
ツアーも増えれば、添乗員も重要がまします。

数年後、拘束時間が長すぎるとか、
仕事の割には給料が少ないことが、
社会問題として話題になったこともありますが、
当時は旅行できる楽しみが優先でした。

しかしこれから何処で暮らすか、何をするか?
これは私について回る問題でした。
日本で暮らすことは全く考えられません。
しかし渡り鳥の生活も続けられないですよね。

アメリカが駄目ならオーストラリアがあるさ。
200年際を迎えてから観光客が増えだし、
観光ブームが始まろうとしていました。

オーストラリアの友人が日本滞在中、
永住権申請に関するアドバイスをくれました。
駄目でもともと失うものはありません。
そうして永住権を申請することになりました。
永住権を申請しても結果はすぐに出ません。
結局翌年に持ち越されることになりました。

Sydney-Opera-House-and-harbour-bridge[1]
もう一度この夜景が見れるかな by sydney


世界一周の旅

世界一周の旅は以前住んでいたドイツ。
私の海外旅行の始まりの場所です。
その場所に戻れば、私の原点が見える。
この旅行を通じて次は何をするか、
気分をさらにして考えてみるつもりでした。

ヨーロッパをユーレイルで一周したり、
初めてのアフリカ大陸に足を入れたり、
トルコでイスラム文化に触れたりした後、
旅行者が洗礼を受けると言われていた、
インドに初めて入国しました。

サハラ以北のアラブ国もショックを受けましたが、
インドほど衝撃な国はありませんでした。
カレーは好きだったけど、この国を訪問した後、
そのにおいだけで吐き気がしました。

ボロボロになった体をタイで癒し、
すっかりタイが気に入ってしまいました。
人も優しい、食べ物も私の口にあいます。
それからしばらくタイに通うことになりました。

世界一周と言っても航空券はその場で買いました。
インターネットもないころなので、
旅行代理店に通い航空券を見つけては
次の場所へと移動していました。

旅行をしていると旅行情報が手に入ります。
安い航空券を販売している国や街
安い宿が集まる所で買うことができました。

結局アテネでバンコクまでの航空券を買い
バンコクで日本経由ロス行きの券を買います。
航空券は一年間オープンですから、
ストップオーバーして次のことを考えます。
バンフにまた戻ろうかとも考えたけど、
また日本でゆっくりすることにしました。

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インド旅行で行ったタージマハール bywiki

アメリカが駄目ならどうするか?


「夏が来れば思い出す、バンフに戻ろう」
世界で一番大自然がすばらしい街へ。
ロサンゼルスの生活も嫌じゃないけど、
スモッグが多くて暑い夏よりも
涼しい緑の中の生活の方が良いですよね。

それに不法滞在はしたくないし、
カナダの永住権も維持しないといけないし、
一番好きな時期をバンフで過ごすことにしました。
仕事もあるし、スタッフアコモもあるし、
大手を振って帰れるのが楽でした。

観光客もどんどん増えてきたバンフ。
ガイドの仕事も4年目となると余裕もでき、
一番楽しかった時期かもしれません。
それでも冬に過ごしたいと思わないので、
夏が終わるとロサンゼルスに戻りました。

友人の所にシェアーさせてもらって、
仕事先は去年と同じ会社でガイドと、
こちらも問題なく戻ることができ、
二年目のロサンゼルスの生活が始まりました。

いくら申請したグリーンカードの結果を待っても、
弁護士事務所からは何の連絡もありませんでした。
誰かが当選したという話は何処からともなく、
私達の耳にも入ってくるのですが
ふたりともどうやら外れてしまったようです。

こうなったら次を考える私です。
来年どうするか?同じことを繰り返すか?
人生常に新しい道を選ばないとね。
30代前にできる限りのことをやってみよう。
そしてもっとたくさんの国を見てみたいと、、。

翌年1月私は世界一周の旅にでました。
ロサンゼルスから久しぶりのドイツへ、
ヨーロッパ旅行をした後アジア経由で日本へ、
初めての特に予定のない旅行でした。

考えてみると久しぶりの旅行ですね。
今まで移動ばかりだったので、、、
この世界一周が終わったら、
自分の人生を考えるつもりでした。

MonumentValley-to-FourCorners_067[1]
   ユタ州にあるメキシカンハット

ロサンゼルスで冬を過ごす

バンフからロサンゼルスへのドライブ旅行は、
今まで一番思い出に残っているドライブです。
カナダとアメリカの国立公園を楽しみました。
私も友人も大自然に魅了されてしまいました。

ロサンゼルスでは友人のアパートで
一緒に暮らすことになりました。
住む所さえあれば車があるので問題なし、
日本人の多い街ですから仕事はたくさんあります。
ウェイトレスの仕事もあったかけど、
観光客が多いのでガイドの仕事もありました。

小さな旅行会社でしたが、仕事はありました。
私以外にもぐりで仕事している人はいました。
カナダの免許を持っているので、
たまにハイヤーカーでドライバーガイドもしました。

観光ビザだけどカナダの永住権を持っていると、
メキシコとの国境も簡単に出入国できました。
お陰でメキシコ観光が回ってきました。
不法滞在で出国できない人もいたのです。

日本人でもたくさん不法滞在していました。
一応会社にスポンサーになってもらい、
永住権が取れるまで頑張っているようです。
そこまでして永住権も欲しくないけど、
やっぱりアメリカのビザは欲しかったです。

そんな時耳寄りな話を友達が教えてくれました。
5年以上の不法滞在者に恩赦がでるかわりに、
宝くじグリーンカードの抽選が行われると、、。
日本生まれの人は誰でも申請できるけど、
当たるのはわずか5万人という話でした。

当時は早い者勝ちというので、
私達は現地の弁護士を通して応募しました。
というかこの移民弁護士が話しかけて、
応募する日本人を集めていました

全世界から150万通以上の応募がありましたが、
当選したのはわずか5万人でした。
私達はどちらも当選しませんでしたが、
翌年にその中からさらに5万人が当選するそうで、
私達は翌年に期待をかけてみました。

MonumentValley-to-FourCorners_026[1]
アメリカで一番好きなモニュメントバレー


渡り鳥の生活が続くけど

1年半ぶりにカナダに入りました。
到着するために前の会社に楽しんで
やってもらえるように頼みました。
そして世界で一番気に入っている所で、
一番良い時期だけ働くことにしました。

観光客はますます増えていました。
お陰で仕事は嫌というほどありました。
スタッフも2倍以上に増えており、
夏だけのガイドでも充分暮らしていけました。

バンフに二つのタイプの住人がいました。
この街に永住している人は1万人足らず、
他は忙しい季節だけ働くシーズナルスタッフです。

スキーのインストラクターをしている人は、
私と全く違う季節にバンフに住んでいましたが、
夏はガイドをして、冬は旅行している人もいました。
私もその仲間入りを始めていたようです。

バンフの夏これほど最高の街はありません。
アラスカ、スイス、ニュージーランドも行ったけど、
バンフに暮らしていた時期を忘れることはできません。
一年中暖かった定住するのですが、、。
でも冬が厳しいからこそ、夏がすばらしい。
その有難味に感謝しなければなりません。

シーズンが終わると渡りのように準備します。
今年は何処へ行こうか迷っていましたが、
ロサンゼルスで暮らしてみることにしました。

日本で知り合った友人がふたりも、
ロサンゼルスで暮らしていました。
何度もすでに訪問している街ですが、
やっぱりアメリにも住んでみないとね。

ちょうどタイミングが良かったようです。
台湾で知り合った友人が遊びにくるので、
私の車でアメリカに行くことにしました。
仲間がいれば移動中も心強いです。

Canadian Rockeis 3[1]
  観光客に人気のあるレイクルイーズ

優雅な気分で暮らしたシドニー

帰国するときは殆ど片道チケット、
アメリカから日本経由でアジアへと
ストップオーバーができる航空券を買いました。
航空券は1年間有効ですから、
これなら日本のついでに海外旅行ができます。
帰りは現地で航空券を買っていました。

そのころドイツ時代の友人が
ちょうどクアラルンプールに住んでいました。
そのために帰国前からこの街に
訪問することを考えていました。

台湾、タイ、マレーシアと訪問後、
シンガポールからシドニーに飛びました。
カナダはちょうど秋の入り口、
寒いころに尋ねる気持ちはありません。
それならシドニーと決めていました。

観光ビザで滞在することもできますが、
途中から学生ビザに切り替える予定でした。
これならガイドの仕事もできますからね。
すでにシドニーに知人がいたので、
仕事も住むところも問題ありませんでした。

シドニーに滞在中は学校に通いました。
それもヨットのクルーになるための勉強。
山で育った私は泳ぐのは苦手ですが、
シドニーにいるならヨットを習いたかったのです。

ヨットのからの眺めは最高でした。
それはバンフの景色は全く異なりますが、
美しい大都会でヨットに乗っているなんて
これ以上の贅沢はありません。

確かにここで仕事はしているけど、
これも旅行の一部に過ぎませんでした。
将来のことも考えずに今だけを楽しむ
そんな夢心地の暮らしをしていました。

シドニーを離れても現実に戻るのではなく、
しばらくはトラベラーでいることにしました。
何処に住むとも決めずに良い季節だけを
好きな場所で過ごすという生活です。
もちろん生活のために仕事はしますが。

SYdney-Harbour-from-ferry-DPC[1]
世界三大美港 シドニー湾 by flicker



駄目なら旅に出るだけさ

1に確認、2に確認と言われるほど、
添乗員は確認ばかりしていました。
それでもどうにもならない時もあります。
その朝も予約確認をして空港に行きました。

ところが機材変更のために乗れなくなりました。
最初は半分帰れると言われたのですが、
誰が残るかお客様とお話しているうちに、
何と全員帰れなくなってしまいました。

お盆の時期、全員で45名近いツアー、
その日に帰国できないと分かると、
苛立って怒鳴る方も出てきました。

何とか翌日のアメリカ経由のフライトで、
それもファーストクラスで帰国と決まったのですが、
納得しない人たちも多かったようです。
帰国前から日本のツアー会社に電話を入れ、
文句たらたら言う人もいたそうです。

会社はひとり5万円の見舞金を支払いましたが、
私は犯罪者のように事情聴取されました。
基本的なことはちゃんとやったのですが、
私の態度が悪いというクレームがでました。

その旅行会社にレポートを提出、
一応既定の給料は貰いましたが後味も悪く、
添乗する気がすっかり失せてしまいました。

あんなに憧れてなってみたものの、
給料はガイドよりも安く重労働の連続です。
現地でヘラヘラ説明できるガイドの方が、
どんなお客様に喜ばれることでしょう。

すぐに派遣会社に電話を入れて退職。
去年かった日本経由の航空券で、
一週間後には機上の人になっていました。

The Ramparts, Canadian Rockies [1]
  カナディアンロッキー by flicker

憧れの添乗員としてデビュー

日本に長期滞在すると問題になるのが、
やはり住むアパートですよね。
まずは姉の所に滞在して落ち着いたら、
配膳会からリゾートの仕事を紹介してもらいます。
これならスタッフアコモも食事も心配いりません。

その時は軽井沢のホテルで働いていました。
雪が積もりいよいよ閉鎖となると、
働いて同僚が一緒に住もうと言ってくれました。
彼女について東京に行き、一緒に暮らしました。
この間も配膳会から紹介されたホテルの
宴会場やレストランで働いていました。

しかし今回は添乗員になる夢がありました。
当時海外旅行がブームになっており、
添乗員だけを抱える派遣会社も増えていました。
添乗員会社は添乗員を養成するコースを持っており、
無事に資格をとると添乗員として働けました。

大手の旅行会社も添乗員を持っていましたが、
ピーク時になるとそれだけでは足りません。
海外への渡航者の数に間に合わないほど、
誰でも行ける海外旅行になっていました。

まだ個人で旅行する人は少なかったです。
添乗員付き、食事付きのツアーが
一番人気があった時代でもあります。
旅費はそれでもまだ高い時代でしたが、
円高になるとさらに渡航者が増えました。

約3か月近い研修を終えて資格をとると、
国内添乗員としてデビューします。
規定の時間をクリアーして経験を積むと、
いよいよ海外添乗員としてデビューしました。

私の初の添乗はカナダをアサインしてくれました。
これなら慣れているし、自信もありました。
どの都市も一度は行ったことがありますが、
仕事で行くのは思ったよりも大変なことでした。

お客様を取り残したり、航空券を忘れたり、
いろいろミスがありましたが、
それでも無事にバンクーバーに戻ってきました。
そしていよいよ出発の日に事件が発生しました。

Bow_Lake_Canadian_Rockies_Alberta[1]
 ボーレイクとヤナギラン by flicker


夏のバンフは好きだけど、、、

カナダに戻ると現実の生活に戻りますが、
仕事もアパートも見つかっているのは楽でした。
前年にやったガイド会社で働くことにしました。

ガイドの仕事はとても楽しかったですね。
毎日毎日が新しいことの発見。
バンフの大自然の中で働けるのは、
誰よりも幸せなことかもしれません。

世界中からの旅行者はお金を払って、
カナディアンロッキーにやってきます。
それでも天気が悪ければ楽しめません。
天候は運を天に任せるしかなかったのです。

バンフの夏はシドニーの冬と同じ気温。
たまに雪が降ったり、雨で寒い日もありましたが、
「夏」という言葉で気分が紛れました。

何百種という高山植物が咲き乱れ
野生動物がアパートの前まで遊びに来て、
絶景の山や湖を見ることができます。
ほんの一瞬しかその姿が見れない時もあります。
これはバンフに住んでいるからだけでなく、
ガイドをしているからこそ見れるものです。

日本人のツアーですから神経を使います。
飛行機が飛ばなかったり列車が遅れたりと、
何かとハプニングも多い仕事です。
時には上司から注意される失態をしたり、
それでも私はこの仕事が好きでした。
いろんな人と話すのが好きだったのでしょうね。

バンフには世界的に有名なスキー場もあります。
冬でも仕事を何とかすることはできました。
スキー場の仕事はしなくても、ホテルでも働けるし、
ウェイトレスだってやることもできました。

でも寒いのを我慢することはできません。
雪に閉ざされた風景は写真で見るもの、
そこで生活する気力は生まれてこないのです。
そこでカナダから二度目の帰国となりました。
前年はオーストラリアで過ごしていたので、
新しい気持ちで日本で過ごすことができます。

ガイドの経験もだいぶ身に付き、
欧米、オセアニアやアジアも少し旅行したので
添乗員になってみたいと思いました。
世界中を無料で旅行できる添乗員、
旅行好きにはぴったりの職業だと思います。

Moraine Lake Banff National Park Alberta Canada 11[1]
   私が一番好きなモレーンレイク




観光ブームになる前のシドニー

シドニーでアパートが見つかると仕事探し。
まずは歩いて行ける日本食レストラン、
そこのカラオケバーで働き始めました。
それなら昼間別の仕事もできますからね。

シドニーの生活はとても楽しかったです。
カナダは移民しているので「生活の場」
ここには私の仮の姿がありました。

シドニーの日本人が少ないのか、
知合った駐在員の人たちはやさしく、
マドンナのような生活をしていました。
それも私が若かったせいだと思います。

ガイドの仕事を探しましたが、
現実は観光客がいないので少なかったです。
日本航空とカンタス航空が週1便づつという
まだまだブームになる初めのころでした。

何とかガイド会社で働いてみると、
恩赦で永住権を取った人もいたり、
まだ不法滞在している人もいました。
カナダから働きに来ているというと、
ちょっと違った目で見られました。

ワーホリのビザは当時半年のみ。
ビザが切れたら帰らなければなりません。
カナダの冬に戻りたくないので、
ニュージーランドを観光した後再入国。
「まだ観光したいところが残っている」というと、
なんと一か月の観光ビザをすぐにくれました。

そしてハレー彗星でブームになりました。
飛行機便数が週1便から週3便に増え、
観光客が少しづつ増え続けました。
ガイドが足りないので観光ビザでお仕事。
そんな緩さが当時は残っていました。

永住ビザはカナダよりも厳しく。
大学を出ていない私は、
申請できるだけのポイントもなく、
二度と戻らないつもりで帰りました。

カナダからの往復航空券も
ストップオーバーを利用して、
往路はフィージー、帰路はタヒチと
旅行スペシャリストになりつつありました。

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    シドニー発祥の地ロックス



ワーホリでオーストラリアへ

カナダの冬を逃れて日本に行き、
数か月東京で暮らすことにしました。
この間日本でやっていた仕事はウェイトレス。
結局久しぶりの日本でのんびりするだけ、
特に何もせずに時間は流れました。

この時の収穫と言えば滞在中に
オーストラリアのワーホリビザを
申請して手に入れたぐらいですね。

もちろん日本滞在中に海外旅行。
アメリカからの往復航空券は
日本経由の香港行でした。
ストップオーバーを利用して、
旅行する裏技を身につけていました。

バンクーバーではウェイトレスをしながら、
次の仕事の物色をしていました。
前年にガイドに挑戦したのですが、
採用されたもののデビューすることはなく、
研修だけで終わってしまいました。

その年はバンフでガイドに挑戦しました。
そこならスタッフアコモあるし、
旅行ブームで観光客が増えていました。

私はカナダに夏の間だけ仕事をして、
後は他の国で過ごすのが夢でした。
そのためにはガイドの仕事はびったりです。
忙しい時期に、働くだけ働きます。
スタッフアコモがあれば
アパートを探す心配も」いりません。

バンフでガイドとしてデビューした後、
数か月で辞めることになりました。
オーストラリアのビザが切れる前に、
シドニーに入国しなければなりません。

働きながら海外旅行をするワーホリ制度は、
労働ビザのように制限されることもありません。
移民ほど複雑な手続きもいらないし、
その気軽さが私にはぴったりでした。

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  シドニーのシンボル オペラハウス




カナダの冬を逃れて、、、

バンクーバーに移動すると、
初めて旅行会社に勤めました。
ウェイトレスから打破するために、、。
でもその年の終わりに首になり、
結局またウェイトレスに戻りました。

日本食は何処にでもありますからね。
英語と日本語が話せて経験があれば、
いつでもどこでも見つかりました。
まだワーホリ制度がなかったので人手不足。
若いということは仕事が簡単に見つかります。

まだバンクーバーに来て一年未満。
仕事は今までと変わりないけど、
友人も増えて楽しかったですね。

でも一番私が気に入ったのは
冬を抜け出したバンクーバーの気候でした。
カナダの生活は2年目に入っていましたが、
トロントと違って風光明媚なバンクーバー。
皆が住みたい街のトップ10に入っています。

海も山もあって最高の場所です。
そのころ住んでいたアパートは、
多分人生で一番好きな場所ですね。

夜は波の音が聞こえるほど海に近く、
窓からは雪を頂いた山が見えます。
歩いて行けばカフェやお店が並んでおり、
市内の中心地にも歩いて行けます。

でも一番気に入ったのは大きな公園。
一周10kmはあるスタンレーパークは
シカやアライグマも住んでいるほど
自然が残っている公園でした。

仕事の合間にそこに散歩をするのが、
私の一番の楽しみだったかもしれません。
暑くもなく、雨も少ない夏の間は、
カナダを楽しむのに一番良い季節です。

でも寒い時期を過ごすのは嫌なので、
私の放浪の旅が始まりました。
最初の年は日本に戻ってみました。

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  バンクーバーのスカイラン by wiki



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