地球ワーキングトラベラー見聞記
カナダ、アメリカ、オーストラリアの永住権を持ち、ヨーロッパでの滞在経験もあります。世界100カ国以上回った、私の見聞記を楽しんで下さい。
2019/05/13 Mon.
ジャコウウシの産毛「キヴィアック」
Posted on 01:00:41
その牧場では生産するというより、
ジャコウウシを絶滅から守り、
キヴィアックをプロモートするために、
NPOとして設立されました。
5月中旬から9月まで毎日営業、
30分おきに牧場内を案内する
ツアーが出発しています。
1頭のジャコウウシからとれる産毛は
平均2kgぐらいしかないそうです。
すべてのウシから産毛を採取したら、
半分は先住民のもとに送られます。
その人たちに製品の編み方を教え、
この牧場やアラスカ内のお店で販売、
その売り上げが先住民たちの暮らしの
助けになるようにしています。
アンカレッジ市内には、
そんな先住民の人たちが直営する
キヴィアックのお店がありました。
それぞれの先住民族によって、
編み方のパターンが違うそうです。
産毛の生産量が少ないので、
お値段はかなり高価でした。
でもその軽さから一度手にしたら、
二度と手放せないと言われています。
先住民の言葉で「ナチャック」と呼ばれる、
帽子またはマフラー代わりに使えるものが、
製品の中で一番人気がありました。
値段はだいたい統一されているようで、
キヴィアックの重さで異なりました。
私の給料ではちょっと無理かな?

ジャコウウシ
ジャコウウシを絶滅から守り、
キヴィアックをプロモートするために、
NPOとして設立されました。
5月中旬から9月まで毎日営業、
30分おきに牧場内を案内する
ツアーが出発しています。
1頭のジャコウウシからとれる産毛は
平均2kgぐらいしかないそうです。
すべてのウシから産毛を採取したら、
半分は先住民のもとに送られます。
その人たちに製品の編み方を教え、
この牧場やアラスカ内のお店で販売、
その売り上げが先住民たちの暮らしの
助けになるようにしています。
アンカレッジ市内には、
そんな先住民の人たちが直営する
キヴィアックのお店がありました。
それぞれの先住民族によって、
編み方のパターンが違うそうです。
産毛の生産量が少ないので、
お値段はかなり高価でした。
でもその軽さから一度手にしたら、
二度と手放せないと言われています。
先住民の言葉で「ナチャック」と呼ばれる、
帽子またはマフラー代わりに使えるものが、
製品の中で一番人気がありました。
値段はだいたい統一されているようで、
キヴィアックの重さで異なりました。
私の給料ではちょっと無理かな?

ジャコウウシ
2019/05/12 Sun.
ジャコウウシの牧場へ行ってみた
Posted on 01:00:06
ビバリーがある牧場に連れて行ってくれました。
そこにはちょっと変わった牛がいました。
一見するとバイソンのような動物でしたが、
マスクオックス(ジャコウウシ)でした。
ジャコウウシはもともと北極圏に住み、
ヤナギなどの小さな木や草、
コケなどを主食としています。
以前はたくさん生息したジャコウウシも、
人間によって乱獲され、シベリアでは、
絶滅してしまったそうです。
肩の高さは1.2mから1.5mほど
体重は250~400kgほどあります。
1頭のオスが数頭のメスをハーレムにし、
15~20年ほど生息するそうです。
現在はグリーンランドやカナダ北部を中心に、
ノルウェーやアラスカでも見ることができます。
全滅したシベリアにはカナダから移住した、
ジャコウウシが少しずつ増えているそうです。
この動物が極厳の北極圏で暮らせるのか?
それは外毛の下にある産毛が
氷点下40~60度の気温の中でも、
外からの寒さから守ってくれるからです。
その産毛はキヴィアックと呼ばれていて、
カシミアよりも何倍も軽くて強いそうです。
「世界最古にして最高の獣毛」と言われます。
それはこの動物はマンモスがいた古代から、
唯一生息している草食動物だからです。
イヌイットたちは春先に抜けてくる産毛を集め、
それを紡いでいろいろなものを作りました。
これがアラスカでも高級なお土産として、
お土産屋さんでも販売されていました。

ジャコウウシの牧場
2019/05/11 Sat.
開拓団が切り開いた街「パーマー」
Posted on 01:05:54
1930年世界大恐慌の頃、
アメリカのルーズベルト大統領は、
ニューディール政策を打ち出しました。
その一環としてパーマー周辺に、
203家族が開拓団として移民しました。
1867年にロシアから買ったアラスカ、
しかし殆ど先住民しかいなかったので、
このアラスカをアメリカの領地にするために、
白人の開拓団が必要だったのです。
アメリカ連邦政府は不況にも関わらず
何億というお金を投じました。
40エーカー(約16ヘクタール)の
土地を無償で払い下げましたが、
厳しい冬の気候の中で耐え切れず、
土地を捨て移った人も多かったのです。
平野部は広大に続いていますが、
耕せる場所は決まっていました。
氷河から流れるだすシルトの土地は、
作物など受けることもできません。
そして地下には永久凍土もあります。
そんな中で開拓してきた人たち
開拓団の歴史はどこも順風ではないけど、
アラスカほど厳しかった所は少ないです。
当時アラスカに移住するのは、
海外に移民するのと同じ遠かったですね。
現在そのころに建築された家は、
連邦政府の国家歴史登録財に指定され、
保存するようにされています。
アメリカとしての歴史は短くても、
開拓団の魂はしっかり根付いています。

パーマーの景色 by Tripadvisor
アメリカのルーズベルト大統領は、
ニューディール政策を打ち出しました。
その一環としてパーマー周辺に、
203家族が開拓団として移民しました。
1867年にロシアから買ったアラスカ、
しかし殆ど先住民しかいなかったので、
このアラスカをアメリカの領地にするために、
白人の開拓団が必要だったのです。
アメリカ連邦政府は不況にも関わらず
何億というお金を投じました。
40エーカー(約16ヘクタール)の
土地を無償で払い下げましたが、
厳しい冬の気候の中で耐え切れず、
土地を捨て移った人も多かったのです。
平野部は広大に続いていますが、
耕せる場所は決まっていました。
氷河から流れるだすシルトの土地は、
作物など受けることもできません。
そして地下には永久凍土もあります。
そんな中で開拓してきた人たち
開拓団の歴史はどこも順風ではないけど、
アラスカほど厳しかった所は少ないです。
当時アラスカに移住するのは、
海外に移民するのと同じ遠かったですね。
現在そのころに建築された家は、
連邦政府の国家歴史登録財に指定され、
保存するようにされています。
アメリカとしての歴史は短くても、
開拓団の魂はしっかり根付いています。

パーマーの景色 by Tripadvisor
2019/05/10 Fri.
パーマーまで遊びに行こう
Posted on 01:03:56
ビバリーとベンが街まで買い出しに行くので、
そのついでに遊びに行こうと誘われました。
「何処かよい」と聞かれても知らないので、
アンカレッジ郊外のパーマーに行きました。
アラスカステートフェアーが開催され、
アラスカの農業地帯として知られています。
ホテルやアンカレッジで使用されている
野菜や果物が生産されていました。
私たちは先にパーマーに行き、
昼食を取ることにしました。
ローカルのレストランで食事をして、
特にこれという名物でもないけど、
たまに外食するのはうれしいです。
パーマーはその昔先住民たちが、
交易のために移動しながら住んでいました。
18世紀になりロシア人がやってくると、
先住民にロシア正教を広めました。
第一次世界大戦が勃発すると、
より性能の良い石炭を求めて、
アメリカ連邦政府が鉄道の必要性を感じ、
スワードからアンカレッジ経由で
パーマーまで建設されることになりました。
鉄道の開通は農家に市場を広げました。
ここに新しい街を建設して、
ミシガン、ミネソタ、ウィスコンシン州から
開拓団を受け入れました。
彼らの約半分近くは1965年までに
この土地を離れ移動していったそうですが、
現在でも20家族が開拓団の子孫として、
この土地にまだ残っているそうです。
![sweat-peas-and-ice[1]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/t/a/k/takechan0312/20190428105849820.jpg)
パーマーの景色 by Tripadvisor
そのついでに遊びに行こうと誘われました。
「何処かよい」と聞かれても知らないので、
アンカレッジ郊外のパーマーに行きました。
アラスカステートフェアーが開催され、
アラスカの農業地帯として知られています。
ホテルやアンカレッジで使用されている
野菜や果物が生産されていました。
私たちは先にパーマーに行き、
昼食を取ることにしました。
ローカルのレストランで食事をして、
特にこれという名物でもないけど、
たまに外食するのはうれしいです。
パーマーはその昔先住民たちが、
交易のために移動しながら住んでいました。
18世紀になりロシア人がやってくると、
先住民にロシア正教を広めました。
第一次世界大戦が勃発すると、
より性能の良い石炭を求めて、
アメリカ連邦政府が鉄道の必要性を感じ、
スワードからアンカレッジ経由で
パーマーまで建設されることになりました。
鉄道の開通は農家に市場を広げました。
ここに新しい街を建設して、
ミシガン、ミネソタ、ウィスコンシン州から
開拓団を受け入れました。
彼らの約半分近くは1965年までに
この土地を離れ移動していったそうですが、
現在でも20家族が開拓団の子孫として、
この土地にまだ残っているそうです。
![sweat-peas-and-ice[1]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/t/a/k/takechan0312/20190428105849820.jpg)
パーマーの景色 by Tripadvisor
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