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地球ワーキングトラベラー見聞記

カナダ、アメリカ、オーストラリアの永住権を持ち、ヨーロッパでの滞在経験もあります。世界100カ国以上回った、私の見聞記を楽しんで下さい。

タコスのフードトラック

カルフォルニアの人口は約4000万人、
そのうち40%近くがヒスパニック
およびラテン系の血を引く人種で、
それ以外の白人人口より多いです。

私が住んでいたロサンゼルスでも、
飲食関係で働く労働者は、
圧倒的にヒスパニック系が多かったです。

日本人が和食、中国人が中華を好むように
メキシコ人はメキシコ料理が大好き、
アメリカの何処を旅行しても
簡単にメキシコ料理が食べられます。

毎日は食べれないメキシコ料理ですが、
滞在中に食べたタコスは忘れられません。
農場で働く労働者やその家族のために、
夜になるとタコスのフードトラックが
農場の端の方で営業を始めます。

フードトラックは移動できますが、
毎日同じところで営業しているのでしょう。
たくさんの人たちが食べに来ていました。
レストランまで行くのは遠いし、
手がるのに食べれるのが重宝します。

わずか5ドルぐらいのタコスやブリート。
もちろんベジタリアンもありますよ。
ネギやキャベツなどの添えは無料、
自由にお代わりすることもできました。

ロサンゼルスでいくつかトライしたけど、
ここで食べたブリートには叶いません。
値段はロサンゼルスの半分ぐらいで、
量は2倍ぐらいありましたよ。
このブリートをもう一度食べるために
ボランティアしても良いですよ。

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    施設でボランティアする人たち


自分たちの利害だけを求める農場主


カルフォルニアの農業労働者の中には、
中国人、日本人、フィリピン人などの
海外からの移住者も含まれています。

アングロサクソンの農場主たちは、
自分たちの利害関係を守るために、
労働者が足りないときは、
ある国からの移民者を増やさせ、
多くなりすぎるとその国からの
移民を制限するように訴えました。

当時メキシコからの移民に対しては
まだ制限はありませんでした。
アメリカの雇用主から労働者に対して、
職を保証するという書類さえあれば、
「永住労働者査証」を入手できました。

1952年この移民法が制定され、
グリンカードコミュータと呼ばれました。
彼らは職業の選択も自由でしたが、
農場主たちも優先的に採用しました。

1960年代西半球からの移民が増え、
農業労働者が確保できるようになると、
プロセロ制度は廃止されました。

しかし現在でもアメリカには
季節農業労働者査証があります。
最高3年という期限つきですが、
そうしないと労働力は不足しています。

私がボランティアした周辺でも、
農場で働いているのはメキシコ人ばかり。
永住権を持っている人は少ないし、
不法滞在者もいるのかもしれません。

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    施設でボランティアする人たち



ヒスパニック系季節労働者

プロセロはアメリカとメキシコの
両国にお墨付きをもらった労働者です。
多いときはその半数以上の63%が
カルフォルニア州で働いていました。

プロセロの契約は3年間ですが、
一回につき半年の制限がありました。
果実、野菜、綿花は出荷時期があります。
長期滞在できないプロセロたちは、
一日の労働時間をできるだけ長くして、
お金を稼ぐようにしていました。

どの農作業も単純ではありますが、
夏期は40℃以上の炎天下で
乾燥した「灼熱地獄」のような環境で、
背を曲げたままの重労働が続きました。
さらに大量の農薬・肥料が散布され
労働者は皮膚病に悩まされたそうです。

アングロサクソンの半分以下の賃金でも、
メキシコでは収入のない労働者たちは
契約が終わっても帰国しないで、
不法滞在して働き続けた者もいます。

それらをウェットバックと呼んでいます。
プロセロの契約できなかったものも
この中に含まれていますが、
最高時には年間100万人以上いました。

ウェットバックの賃金は、
プロセロの半額にもなりませんでした。
それでも働きたいメキシコ人労働者、
労働力を確保して、賃金を抑えたい
カルフォルニア農場主たちを取りなす
会社もたくさん作られたそうです。

こうやってメキシコ人労働者が、
カルフォルニアに蓄積されてきました。
現在カルフォルニア州の人口のうち
ヒスパニック系が一番多いです。

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    施設でボランティアをする人たち

カルフォルニアの農場

カルフォルニア農業も盛んです。
東部から3500km離れていますが、
温暖な気候と灌漑用水によって、
冬期でも農作物を生産することができます。

シエラネバダ山脈とコースト山脈の間には
広大な作付面積を持つ農家もあります。
数千ヘクタールもある農地ですが、
わずか数種類の農作物しか植え付けしません。

私がボランティアした施設の周辺は
そこまで大きな農場はないようですが、
農場の労働力不足には悩まされています。

第二次世界大戦が勃発すると、
アメリカ農産物の需要が拡大、
農作物の価格が急騰してしまいました。

農場主たちは対応として、
耕作面積の拡大や動力機械の採用増加、
農薬や肥料の量を増やして
生産力の上昇を図ったそうです。

しかし農業人口が減少していくと、
農業労働者の賃金が高騰し、
低賃金で労働者を確保することが、
農場主にとって最大の問題となりました。

そこで人口過剰であったメキシコから
最低限の賃金で労働者を確保する
「プラセロ計画」が導入されました。

この制度は1942年に始まり
1964年まで続きましたが、
多いときには年間40万人以上が
季節労働者として働いていました。

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    施設でボランティアする人たち

アメリカの奴隷制度

もともとカルフォルニアを開拓したのは、
スペイン系の人たち、メキシコの領土でした。
そのためにスペイン語の地名も多いです。

1848年スペインが米墨戦争に負けると、
その領土をアメリカに割譲したり、
アメリカが買った土地もあります。
こうしてアメリカの国土は広がりました。

16世紀から18世紀にかけて
アフリカから奴隷が輸出されました。
その数は約1200万人だそうですが、
そのうちのわずか5.4%(約65万人)が
現在のアメリカ合衆国に来たそうです。

1770年代になって州によっては、
奴隷の輸入を禁止する法律を採択しました。
しかしまだ英国の植民地であったために
英国の議会に拒否されてしまいます。

こういった流れが独立戦争に拍車を掛けます。
奴隷の多くは東部や南部の農場で働きました。
1776年に独立宣言をしたアメリカは、
1808年までに奴隷の輸入を禁止しました。

奴隷の子孫はそのまま奴隷になります。
アメリカ南部の大農場は奴隷をこき使い
どんどん富を蓄えていきました。
1860年までに400万の奴隷が
当時のアメリカに住んでいたそうです。

奴隷制度が南北戦争の起因となりました。
1863年リンカーンは奴隷制度廃止を宣言。
1865年北部が勝利し南北戦争が終わると、
奴隷制度は完全に廃止されました。
カルフォルニアは1850年に
奴隷制度をおかない自由州になりました。

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    農場から寄付されたフルーツ


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