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地球ワーキングトラベラー見聞記

カナダ、アメリカ、オーストラリアの永住権を持ち、ヨーロッパでの滞在経験もあります。世界100カ国以上回った、私の見聞記を楽しんで下さい。

『カウラ事件』のあった街

ヤングを離れた私たちはそのまま
『カウラ』に移動しました。
私は仕事で何度か来ていますが
友達はまだ来たことがありません。

シドニーから西へ約300km
車で4時間ちょっとで来れるカウラが
どうして日本人にとって大切な街か?
それは戦争中に起きたある事件のためです。

ここには第二次世界大戦中に
軍の捕虜収容所がありました。
1944年8月5日その事件は発生しました。
収容されていた日本人1104名のうち
545名以上が脱走しました。
そして日本人231名が死亡、
108名が負傷したそうです。

カウラ事件』と呼ばれていますが、
捕虜収容所の脱走事件としては最大とか。
それが人口1万人ほどの小さな町で発生、
衝撃は国中を震わせたようです。

今はその面影はほとんどなく、
当時の写真が展示されているだけです。
その写真を見なかったら、
牛が草を食べているのどかな牧場です。

私はこの国に来るまで『カウラ事件』について
一度も聞いたことがありませんでした。
1984年『カウラ大脱走』、
2008年『カウラ事件〜太陽への脱出』
など映画化やテレビ映画化されていますが、
国内でも興行成績は良くありませんでした。

しかしオーストラリアの教科書では
カウラ事件』についても触れています。
地元の人たちは毎年桜まつりを通じて、
亡くなった方がの慰霊を見守り続けています。

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 カウラにある日本庭園の桜 by wiki

観光情報
カウラの観光局
http://cowratourism.com.au

カウラ脱走事件と日本庭園

1944年8月始め、日本人収容兵達は、
カウラの収容人数が大幅に増え過ぎたために、
さらに西に400km程離れたヘイ(Hay)に
移送されると通達されました。

全員一緒ではなく分断されることになりました。
日本人兵士は『この要求を受けるか?
反対するか?』の多数決の票をとり、
『反対=脱出』と決まったそうです。

8月5日午後2時頃から脱出は始まりました。
脱走すれば、オーストラリア兵士は銃をとります。
この脱走事件で、日本人兵士231名と
オーストラリア4名が亡くなりました。

オーストラリア政府も日本政府も
それぞれの事情から戦争中には、
この事件について発表しませんでした。

収容所があった場所は現在牧場になっています。
残念ながら当時の建物は残っていませんが、
当時の建物の写真が展示してあります。

また近くには日本人墓地があります。
地元の人達の協力により、
いつも花が咲いており、きれいに整備されています。
他の場所で亡くなった日本人の遺骨も
ここに移され一緒に埋葬されているようです。
皇室関係の方が来豪された際には
ここに立ち寄り供花されています。

市内には日本庭園があります。
ここでは日本食がブームになる前から、
日本の文化を地元に教えていました。
また市内から収容所跡地まで
八重桜の木が植えられており、
毎年9月には桜祭りが開催されます。

オーストラリアに住んで25年になりますが、
私はこの国に住んで良かったと思っています。
悲しい過去はあったとしても、
オーストラリア人には良くしてもらいました。

カウラにある日本庭園の公式サイト

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   カウラの日本庭園 by wiki




戦争捕虜収容所があった街『カウラ』

修学旅行でもいろん所に行きましたが、
一番衝撃だったのは『カウラ』です。
日本にいる方はNSW州にあるこの街のことを
知るよしもありませんよね。
そんな私もシドニーに来て初めて知りました。

このブログでも過去に、『シドニーの特殊潜航艇』や
『ダーウィンの襲撃』についてお話しました。
戦争中オーストラリアに攻撃をした国は、
私が生まれた日本だけでした。
そのために戦後しばらくは複雑な関係にあり、
オーストラリアの兵士と結婚した日本人花嫁も
しばらくこの国への入国が認められませんでした。

カウラには『捕虜収容所』がありました。
もしこの収容所で『脱走事件』がなければ、
ふつうの捕虜収容所と変わりなかったでしょう。

カウラはシドニーから南西に300kmの所にあり、
首都キャンベラからは170km北にあります。
現在でも人口1万人位の小さな街です。
そこに4000名近い兵士と市民が
『戦争捕虜』として収容されていました。
その大半がイタリア人だったそうです。

1944年8月までにオーストラリア国内で
日本人2223名が捕虜として収容されていました。
その中には533名の海運業者も含まれていたそうです。
そしてこのカウラには1104名が収容されていました。

捕虜と言っても緩やかな生活をしていたそうです。
野菜を敷地ないに植えたり、薪を伐採に行ったり、
また野球や相撲、麻雀などの
レクレーションも許されていました。

毎日と言うわけには行きませんが、
魚が好きな日本人のために、
わざわざシドニーから運んできたりと、
特別な計らいもしてくれたそうです。
負傷者にも手厚い介護も施してくれました。

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   戦争捕虜収容所 by wiki



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